天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「獣の刻印」とは?

こちらはステファン・ヤローさんによる「獣の刻印」についての一つの考察です。「獣の印」も誤解につぐ誤解で人口に膾炙してきたワードだと思います。

自分としては、獣の印は一つでなく、色んな状況で立ち現れてくるものと思っていましたが、この解説では、獣のしるしを授与することが、ローマカトリックの制度の中に位置づけられており、これが預言の成就であると言っておられます。ただ、下の解釈の「右手で付ける」のと、黙示録の「右手に付けられる」のとでは、意味が違ってくるかと思いますが‥‥

数年前にここで紹介していた、アフリカのペニエル・ンゴンドさんのYOU TUBEの番組では、カトリックの司祭達が地獄に落ちているのを見たり、現役の司祭達が冥府で活動しているのを見たという、元魔術師の証が紹介されていました。カトリックの司祭達については、スエーデンボルグも同じようなことを報告しているようです。獣の印を付けられた人間が地の底に下るということを裏付ける証言だと思います。

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獣の刻印

ステファン・ヤロー

重要:聖書の預言では、獣は、王国、政府、行政の形態を象徴している。

ローマ・カトリック教会は、信者に与える印があることを認めており、その印を表す言葉は、黙示録で獣の印を表すのに使われているものと同じです。以下の文献は、すべてローマ・カトリック教会の教義から引用したものです。

黙示録 13:16-17(新ウルガタ聖書)

"Et facit omnes pusillos et magnos et divites et pauperes et liberos et servos accipere characterem in dextera manu sua et in frontibus suis, et ne quis possit emere aut vendere, nisi habet characterem, nomen bestiae or numum nominis eius."
(また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。)

Characterem = 獣の印

トレント公会議第7回聖餐式に関する教令の公文9号では、この「印」が、洗礼、堅信礼、叙階の秘蹟で与えられることを確認しています。

ラテン語のトレント原文にはこうあります。「もし誰かが、聖餐式、洗礼式、堅信礼、叙階の三種の秘蹟において、魂に消えない印を付けてはならない、これは霊的かつ自由であることの印であるから、そのような印はいらないと言うならば、その者をアナテマ(破門)せよ」

この印は、司祭または司教の右手で被験者の額に十字架の印をつけることによって与えられるもので、消えないものとされている。

偶然の一致、それとも預言の成就?

聖書は、獣の印が、額や右手に与えられると明確に描写しています。聖なるバプテスマでは、例えば成人の求道者はこの方法で印を受けるのです。司祭/司教は、右手の親指で受洗者の額に十字架の印をつけ、「N、あなたの額に十字架を受けなさい」と言います。「この愛のしるしによって、キリストはあなたの力となるであろう・・・」と。[出典:『カトリック教会の儀式』 Pueblo Pub., NY,1976]この十字架の印は、紀元315年にローマ教会で導入されました。

もちろん、人は洗礼の秘蹟を通して、聖なる母なる教会の仲間入りをするのです。聖なる洗礼の秘蹟なしには、誰もこの国に入ることはできません。洗礼では、司祭/司教がその人の額に、十字架の印をつけることを義務付けています。黙示録13:12-14によると、獣は個人的にすべての人に印を付けるわけではありません。そのために獣の代理人が、獣から特別な権限を与えられているのです。

四旬節の灰の水曜日の習慣は、獣の王国の人々(註:ローマカトリック教徒)が、彼の印を受けるのを見ることができる、目に見える例です。印を与える者の右手によって、その臣下の額に印を授けるのです。

堅信礼の秘蹟では、司教が右手の親指で堅信される者の額に油を注ぎます。その際、「Accipe Signaculum Doni Spiritus Sancti. 」と言うのです。この言葉は直訳すると、「聖霊の賜物で印を受けよ」です。

オックスフォード・ラテン語辞典で調べると、ラテン語の "accipe "は "accipere "に由来し、「差し出されたものを受け取る、喜んで受け取る」と定義されていることが分かります。また、"signaculum "の語源は "signo "であり、"区別できるしるしで印をつける "と定義されている。従って、確認された者は「印を受ける」のである。

権威あるドゥエ・ランス聖書は、黙示録13:16-17を次のように訳しています。

「小さき者も大いなる者も、富める者も貧しい者も、自由民も束縛民も、みな右手に、あるいは額に刻印を持つようにされた。そして、刻印、獣の名、あるいはその名の数字を持つ者以外、誰も売り買いできないようにされた。」

 このように、堅信の秘跡では、司教の右手による代理、権力、権威によって、額に十字架の印で受けた「品格」という印を見ることができます。司教は、洗礼、堅信、聖職の消えない印を、額に十字架の印として自ら受けているのです。

ミトラ(司教冠)


ローマ・カトリックの司教がかぶる帽子であるミトラは、二本の角を表すためにわざわざこのようにデザインされました。(ブルーノ・ベルナルド・ハイムの精緻な著書『カトリック教会の紋章学、その起源、慣習、法律について, (New Jersey: Van Duren, 1978); p.62』より)

すでに述べたように、ミトラは典礼に導入されて以来、さまざまな変容を遂げてきました。11世紀の初めには、円錐形か半球形でありました。その後、前と後ろに分かれています。1125年頃からは、「角」と呼ばれる2つの尖った部分が左右に立ち上がり、互いに少し傾き、裏地によって結合されています。12世紀のミトラは、もはや「角」が側面にあるのではなく、頭部の前方と後方にあるのです。

ヨハネ23世の紋章をデザインしたハイム氏は、インノケンティウス3世が、二本の角のシンボルは旧約聖書と新約聖書を表すと説明した、と付け加えています。もちろんその説明では司教は、キリスト教徒にとって信仰の規範である聖書に従う者であると理解することになります。

ここでまた、ありえない預言の成就がありました。司教を含むローマ・カトリックの神権は、黙示録13:16-17にあるように、消えない印 CHARACTEREMを、与えたり受けたりするだけでなく、司教達は黙示録13:11にあるように、二本の角があるミトラ帽をつけているのです。

The Mark of Beast of the Book Of Revelation (pocketoz.com.au) より