天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(7)

私は驚きました。光の中に帰っているのです。そして私は自分の内側を見ました。私を苦しめ続けたあの罪の重荷がことごとく消え去っていたのです。神の子イエス・キリストの十字架の血潮が私のすべての罪をきよめてくださっていたのです。そして罪赦された私の魂からは、沸騰するような救いの喜びが湧き上がってくるのです。私はイエス・キリストの十字架の救いを驚くべき現実として体験してしまったのです。

私にとってイエス・キリストの救いは、教義でも知識でもなく実体験として、一人の罪びとが救われたのです。そしてその救いがなければ、永遠の滅びの中に落ちていくこともはっきりと見せられたのです。私は永遠の地獄の運命から救われたのです。私のあふれ溢れ出る喜びは、そこからの救いの喜びであったのです。  

私はその時、神出精神病院の狭い部屋の中にいました。なぜそこにいるのか分かりませんでした。私は神戸療養所の中で意識を失ったのです。だから不思議でなりませんでした。(中略)私は医師の所に連れて行かれました。

医師は私を見て言いました。「気分はどうですか。」私は医師に答えました。「先生!私は素晴らしい体験をしました。自分の罪のために地獄に落ちていたのに、イエスさまは私のような者を救ってくださったのです。先生!あなたもイエスさまを信じてください!」と言ったので、医師は変な顔をして、机の中からペンライトを取り出して、私の眼を片方の指で開きながら瞳孔を調べていました。私がまだおかしいと思われたに違いありません。しかし私にたいした異常がないことを知った医師は、看護婦さんに、「自由な部屋に連れて行ってもよろしい」と言いました。そして私はこの病院が神出という所にある精神病院であることを知ったのです。

医務室を出て、私が入る部屋を教えられ、その病院の庭に出てみました。そこで初めて見た自然界の風景に驚いたのです。私が見る世界がまったく新しくなっていたのです!目の前の小高い山にはいろんな木々がありました。どの木を見ても、神さまの恵みによってそれらの木々が生かされていることが分かるのです。

私は足元に目をやりました。そこに冬を前にして枯れて行こうとする芝生がありました。私はその場にしゃがみ込み、枯れていこうとする芝生をなでてみました。その枯れて行く一本一本の芝生にも、神さまの恵みによって生かされてきたことを感じる時、私の胸は感謝と感激で熱くなりました。

神さまの恵みは枯れていこうとする芝生だけではない、この不幸な人生を背負った罪だらけの私にも、自らの人生に絶望して死の淵に飛び込もうとしたこの私にも、暗黒の陰府の中へ真っ逆さまに落ちていた滅ぶべき私にも、神さまのご愛と恵みがイエス・キリストの十字架の救いとなって届いて下さったことを、私はその場にひざまずいて感謝したのです。(中略)

その夜、薄暗い雑居部屋の裸電球の下で、正座をして新約聖書を読んでいました。神戸療養所で意識を失った時から手放さずにずっと持っていたそうです。私はこの聖書を部屋に入って初めて開いた時、ビックリ仰天しました。聖書が神のことばになっていたのです。それまでは印刷物でした。聖書のみことばが私に語りかけてくるのです。これは驚きました。幼子が母親の言葉をどんどん吸収していくような感じです。あれほど批判的であった私の頭はいったいどこへ行ったんでしょうか。聖書のすべてのことばが神のことばになり、私の魂の中に入っていくのです。夜になっても私は夢中になって読んでいました。

二、三日たった時、私に面会者が来ました。見知らぬ初老の男性と盲人の婦人が私を訪ねてきました。面会所できょとんとしていると、自己紹介をしてくれました。男性は鷹取教会の三島牧師で、盲人の婦人は教会員でした。私に何の関係があるんだろうと、けげんに思いました。その牧師は私が驚くようなことを話してくれました。その話しの内容は、私が三日間意識を失っていた時の出来事です。

私が神戸療養所で意識を失った第一日目に、三島牧師は私に会ったというのです。私は重症部屋の中で、聖書を堅く握りしめて意識を失っていました。医師や看護婦がいくら揺すり起こそうとしても駄目だったそうです。それで私の身内を呼ぼうとしたが、患者票にはその記録がありませんでした。

たった一つの手掛かりは、私がしっかりと聖書を握りしめていたことです。病院側は私がクリスチャンと思い、この病院に伝道に来る鷹取教会の三島牧師に連絡を取りました。駆けつけた三島牧師は私を見て困ってしまいました。知らない人間だからです。

牧師は仕方ないので私の身内を聞き出そうとして大声で、「君の親はどこにいるのか?」と尋ねたそうです。すると私は突然目を開けて、三島牧師の顔を指差して「お前がオヤジだ!」と叫んだそうです。私にはその記憶はまったくありませんでした。もし私に意識があったら、とてもそういう厚かましい言葉は出なかったでしょう。

このことは私と三島牧師を、神さまが引き合わせてくださったとしか考えられない出来事です。神さまは実に不思議なお方だと思います。私という天涯孤独な男を、そして人間的には多くのハンデをぶら下げて、新しい人生を出発しようとする時に、もっとも頼りになる人を私のオヤジとして出会いをさせて下さったのです。しかも私の意識がまったくなかった時に。

そして三島牧師も、「お前がオヤジだ!」と私に叫ばれた時、これは神さまが、自分の息子として面倒を見てやれと、頼まれたのだと信じられたそうです。

(つづく)