天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(10)

証人への召命(1)

ある日、いつものように私は、山の祈り場に行って神さまと交わりを持っていました。その時、私の心にささやく神さまの御声をきくことができました。「あなたは、わたしの証し人にならなければならない。」

私は「おやっ?」と思いました。そして、「とんでもない事だ!」と思ったのです。このでき損ないの私が神さまの証し人になるなんて、それこそとんでもないことです。

私は自分でも自分を自信過剰なうぬぼれ人間であると思っています。しかしそれは自分が悪の世界に生きていた時のことであり、クリスチャンになってからは、周囲の立派なクリスチャンたちの品性を見て、自信喪失に陥っていた人間です。救われたとはいえ、自分がどういうでき損ないの人間であるということぐらいは、分かっていました。むしろ劣等感を持っていたのです。

確かにイエスさまに救われて新しくなっているのですが、残念ながら肉においては古き人のままでした。内側の新しさがなかなか外側に浸透してこないのです。その無作法さといい、言葉遣いの荒っぽさといい、喧嘩早さといい、これら古き人の時代に身にしみついた性格は、今に至るまで私自身を悩ませています。(中略)

少年院、少年刑務所、成人刑務所を渡り歩いた私は、救われた後にもそういう非常識だけは十分過ぎるほど身につけ、人格的に見てゴリラよりは少しはましな程度の人間だったと思います。

そういう私に神さまが、証し人になれと言われるはずがないのです。これは何かの聞き間違いか、心の錯覚に違いないのです。私は自分の心に語られた神さまの御声を捨てて消し去りました。しかし祈っているとまた、同じ御声が聞こえるのです。

私は大変なことになってしまったと顔が青くなるのを感じました。もし私の心に伝道者になりたいとか、牧師になりたいとかいう憧れの気持ちが少しでもあったら驚きません。多分喜んだでしょう。私はそういう大それたことを夢にも思ったことのない人間だったのです。

確かに私は自分でも不思議に思うほどの救われ方をしています。こんな明確な、聖書的な救いは、あまり見たことも聞いたこともありません。でも私には、それを人々に証しする能力がなかったのです。失われた金貨と同じで、値打ちはあっても使用価値がまったくありませんでした。

神さまの御声は、そういう人間に『わたしの証し人になりなさい』と言われるのですから、私にとってはえらい迷惑です。これは早々に神さまにお断りしなければいけないと思った私は、顔を天に向けて大声で神さまを呼びました。

「神さま!私をからかわないでください。私がどんな人間か、あなたはよくご存知のはずです。変なことを私に押しつけないでください!」

現在の私を知っている人は想像もつかないでしょうが、私は救われたとき言葉を語れる人間ではありませんでした。もし私がまともな言葉を語れる人間だったら、あれほど多くの敵を造り、悪名を売る必要はなかったでしょう。私は口から言葉が出るより先に、感情が飛び出す人間だったのです。(中略:一度大勢の前で証しをするようにと言われ、「私はイエス様に救われました!」と二回繰り返しただけで、後が続かなかった。)

一対一の勝負だったらポンポンと言葉が飛び出すのに、大勢の前でかしこまって話しをする時は過度の緊張で支離滅裂になってしまうのです。

そういう私に神さまは、『あなたは、わたしの証し人になりなさい』と言われるのですから、私がどんなに必死になって拒絶したかは想像していただけると思います。

(つづく)