天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(8)

山の祈り場(1)

(略)主に病気が癒やされたからといって、いきなり健康人の体力が与えられたわけではありません。私はその後十年間は、極貧生活の連続だったので、肉体は痩せて弱く、疲れやすい身体でした。しかし魂はいつも熱く、主の霊に燃やされ、すこぶる健康でした(今でこそ体力もつき、暇な時は車を飛ばして海に行き、徹夜で釣りができるほど元気になりました)。だからその当時、口の悪い友人たちは私の日本人離れした顔にひっかけて、「ガイコツ人」だと揶揄っていたほどです。

主治医から退院命令を出された私は、その日から悩み始めました。そのうえ、私の悩みをせっつくように看護婦さんが来て、「退院する日が決まりましたか?」と尋ねるのです。私はその言葉に身が切り刻まれるような気がしました。そう尋ねられても私にはどうすることもできなかったのです。「イエスさまは、殺生やなあ・・・」と頭を抱えました。不敬虔な考え方ですが、文句も出るのです。別に私が癒してくださいと願ったわけでもおないのに、私の知らぬ間に癒され、それが原因でこんなに悩んでいるのです。「何も急にいっぺんに癒してくださらなくても、少しは私の事情に合わせて徐々に癒してくださればよかったのに」と、とんでもないほどの贅沢な悩みに苦しんでいたのです。

そして悩みぬいたあげくに、ある日私は思い切って主治医の所に相談に行きました。私には帰って行く家がないこと、そして私がもう一年この病院におらせていただき、聖書をもっと読み、周囲の人々にイエスさまのことを伝えたい、ということを主治医に訴えました。主治医は私の訴えに目を丸くして聞いておられました。主治医は私が入院して以来、何もかも私の身に起こったことを実際に見てこられた方です。そして主が私を癒された奇跡を医学者の眼で確かめた人です。

私の事情を初めて知った主治医は目を輝かせてこう言ってくださいました。「君はすばらしい。ギャンブルや異性関係で乱れているこの病院の中で、君のような人が一人でもいてくれたなら、きっと良い感化を与えてくれるだろう。君の申し出を承知しました。一年と言わず君がこの病院におりたいだけ、おらせてあげよう」と約束してくださいました。主治医は最後まで私に好意を示してくださったのです。私の悩みは、バーッと解消されました。

私は本腰を入れて朝から夜まで聖書を読むことに没頭しました。今に至るまでそうですが、私は聖書を読むとき、無理にみことばを理解しようとしたり、研究しようとしたりはしません。ただ、無心に読むだけです。生ける主の御前で心の耳を傾けて聞くのです。そして、どうしても意味を知りたいみことばにであると、それを心に留めておくだけにするのです。聖書を繰り返して読むうちに、そのことばが必ず開かれると信じているからです。人に尋ねたり書物に頼ったりはしません。聖書はそんな不自由な書物でないと分かっているからです。御霊によって教えられることを望むように神さまに教育されていたからです。

事実私は一冊の聖書だけによって、その聖書の中で証しされた神さまを知り、聖書だけによって罪の覚醒が引き起こされ、聖書のみことばによって罪の悔い改めがうながされ、聖書によってイエス・キリストの十字架の贖いの死によって救いを体験させられたのです。

私は聖書を読むことが一番楽しいです。私をこよなく愛しておられる神さまの御声を聞くことだからです。救われた魂がとろけてしまうようになります。それはこの世の時間を感じません。神さまと私の魂がこの世にない永遠を共有している時だからです。

(つづく)