天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

首を斬られ続けて(2)

人は苦しみの中を通っている時は無我夢中ですが、

そこから引き上げられてしまうと何のことはない、

「助かった」と安堵の思いがあるだけです。

祈りによって助け出されたのかもしれませんが、

それは試練を乗り越えたといえるのだろうか?

自分と同じ職場の仲間たち(全員女性)が、きっと今も自分と同じような

苦しみを感じているのに、自分だけがこんなひょいと引き上げられて、

高見の見物をしてていいのか、と少し後ろめたくなってしまいました。

ただし自分はHSPPMDDの傾向があるようなので、

世の中には自分よりもストレス耐性がある人、セロトニンが多くて

放っておいても幸せを感じる人達がごまんといるようなので、

自分の状況が変えられたことにやはり感謝するべきなのでしょう。

社会に出て働くということはとても大変なことです。

まずプライドがずたずたになります。

自分の勘違いさ加減がこれでもか、これでもか、と見せつけられ、

正体不明にさせられます。

それでも人は生きていかねばなりません。

そこから這い出し、立ち上がってまた次の日を生きます。

机上の宗教論など一気に吹っ飛びます。

でもこれが一番人の心を研ぎ澄ましてくれる方法なのではないでしょうか。

周りの人のよい所、だめな所を観察していると、

宗教の教えなどなくとも、人は何が本物か偽物か見分けるようになります。

自分の嘘臭さやだめな所も同時に見せつけられるので、

それはそれは心の痛い思いをします。

チリチリと焼け焦げるようなこの痛み、

この香りは香ばしいかおりとなって神様の元へ辿りつきます?

なんか壮絶ですが、自分にとってはこの首切りの刑が必要だったのだと思います。

よい木を育てようと思うなら、惜しみなく剪定するとよいのだそうです。

時には太い幹を思いきって切ってやると、ぐん!と強く成長するのだそうです。

人(神様を信じる人?)はまさしくこの木のごとく、神様に剪定されるのだと思います。

首を100回切られても人は不死鳥のように蘇ります。

それにしても働くことに対して首切りの刑のように感じているのは、

強い主婦願望があることも原因の一つだとさすがに気づいてきました。

人生の流れに逆らわず、キャリアウーマン宣言をする段階に来ているのか・・・