天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

自分の祈り

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広隆寺にて その2/十字架模様にご注目)

自分の祈りは本当にひどいです。

まず自分のことから祈り始めます。

「神様、こんなことで辛いです困っています苦しいです」

次にやっと神様を(しぶしぶ)讃美します。(そうしなければならないと教えられているので)

最後に人のことを頑張ってお祈りします。

「感謝します」という言葉も、無理やりひねり出してつけ加えます。

これまたそうしなければならないと教えられてのことです。

本当は信仰者としての理想は、

 1.神様 2.人のこと 3.自分のこと

という順番でしょう。

社会生活の中では、さも人には「あなたのことが一番ですよ」的な態度を取ってはいるが、

自分の祈りの順番だけでも、深層心理がばれてしまうというものです。

そんなわけで、祈りからして自己中の本性が見せつけられ、

自己嫌悪の気持ちと戦うことになります。

信仰の深い人は(聖霊を通して教えられる)神様の気持ちを優先させます。

それは自己否定を伴います。

自分のわがままな人間くさい思いと、神様の聖なる思いとを、

信じる人はより分けようとするからです。

昔、尊敬するクリスチャンの女性からハガキをもらって、それに

「神様の御心が成ることが一番ですものね。」

と書いてあったのにショックを受けたことがありました。

自分のことを信仰深いと見くびっていた自分にとって、

そんなことを自覚的に考えてみたことは、ほとんどなかったからです。

参りました、と思いました。

これまた昔、会社の同僚に、

キリスト教は自己犠牲の宗教なんでしょ。だから信じるのが辛い。」

と言われたことがありました。

「へーえ、そうなんだー。忘れていた。そういう風に感じているんだー。」
 
「イエス様は確かに十字架に架かって下さったからな。この人はキリスト教の神髄を言い当てている」
 
と思いました。
 
私が幼い頃通っていた聖霊派の教会では、「自分に死になさい」というメッセージがよく
 
語られていたと思います。これは確かに自己犠牲と通じるところがあります。

最近では神学が巧妙にすり変えられて、自己愛や自己賛美みたいな教えに

変わってしまっているようですが。

ですが自分の内なる罪を憎むというのは、クリスチャン生活の基本中の基本なのではないでしょうか。

良くないことばかり考えたり行ったりするという、人間本来の姿を否定せずして、

神様を信じる生活はありえないと思います。

けれども、自分の祈りの順番からして、いかに自己愛が強いかを見せつけられ、

神様の霊を自分の足で踏んづけている気がしてなりません。

このような自分の内なる強情の思いは、神様を苦しめ、人を苦しめ、何といっても自分さえも苦しめる

原因となります。祈りの中で、この強情さが弱められ、柔らかい心となるようにと必死で願うのですが、

きっと死ぬ間際までこの祈りは続くんだろうなあ。

こんな感じで、自分の祈りは舗装していないようなデコボコの祈りなのですが、

それに比べ、聖霊が豊かに働いている人の祈りは麗しいものがあります。

その人の霊が神様の霊と親しく繋がっているとしか思えないような、美しい祈りです。

それらの人達の祈りは、神様を美しい言葉で讃美することから始まります。

自分もそのような祈りができたらと思うのですが、大きく阻んでいるものがあるようで、

とてもそのような次元には至りません。

祈りでさえも一生デコボコ道をいくしかないのか。

まるで祈り自体が苦しいことばかりのようですが、

不思議なことに、「感謝します」と心の中で呟いた瞬間に、

苦しい気持ちが霧のように晴れて、心がすっきりすることもあります。

あまりにも地獄のような場所に行くのが辛くて、必死で祈る時に

神様の霊が働いて下さって、心が軽くなる不思議も何度も経験しています。

こうして内なる格闘をしながら、朝のバス通勤の時間は飛ぶように過ぎて行きます。

通勤時間が20分では足りない・・・