イエス様の言葉に「裁いてはならない」というのがあります。
宗教の世界にいる人は、これに特に気をつけなければいけません。
教える立場の人々にこれを守れていない人がいっぱいいますね~
むしろ積極的に裁いて喜んでいるようにも感じられます。
自分たちのことを特権階級だと勘違いしている宗教人が陥り易い癖です。
テオドール・イリオンも聖書のこの教えを、「大事なのに皆ほとんど守れていない」と嘆いています。
私も中学校時代に「あの人のここが悪いあそこが悪い」と片っ端から上げ連ねて、得意になっていたことをよく覚えています。
「自分が測ったその秤で秤返される」ことを考えれば、全く恥ずかしいことです。
むしろ人のことを気前良く測るのが平和の道じゃないのか。
日本人はユダヤ人みたいな律法主義的気質を受け継いでいるみたいで、裁くの大好き人間だらけのような気がします。
互いによい所を伸ばすために、励ましたり心に栄養を与え合うという発想ができないようです。
「裁いてはならない」とイエス様から言われて、余計自分の裁く心がクローズアップされます。
「な、なんなんだこの裁く癖は…」
「人の良し悪し言う前に己はどうなのだ」
という思いが自動的に沸き上がってきます。
そこでまた内面の格闘が始まるのですが、一度起きてしまった赤子を寝かしつけるのは容易ではありません。
こういう時こそ神様にお出まし頂かないといけないんだな、
こびりついた悪習は人間業じゃ棄てることはできないよなーということを痛感します。
教会の尊敬する姉妹達が「私って裁き司なのよねー」と言ってた意味がようやく分かった。
イエス様は私は誰も裁かない、裁くことは父がなさると言われました。
税金を不正に取り立てていたザアカイは、イエス様に自分のやった悪事を責められたからいい人になったのではなくて、
赦されて友達になって下さったから、彼の良い面が積極的に現れてきたんだなと思います。
裁かない人になれた自分を想像すると素敵です。
もしかしてそれが最強なんじゃ…と思えてきます。
あー書かなきゃとずっと思っていたことが書けて良かった。