天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

日ユ同祖論論争?

神様を信じる人は、神様と視点を共有して歴史を眺めることをします。

(と自分は思っている。)

神様は死んだ神様ではなくて、現在進行形で働いておられると考えます。

神様は全世界の流れを管理しておられると信じますが、

この日本も例外じゃないと思います。

人は自分の国が一番だと思いたいものです。

チベットの人は、この国があまりにもいいので、絶えず外国から狙われていると思っている。」

チベットを旅したテオドール・イリオンは言いました。

古代日本人が遥か彼方の古代イスラエルからやってきた民だ、

と考えるのは、こうした選民思想のあらわれという側面もあるのかもしれません。

ですが、そもそも古代日本と古代イスラエルの関係を言い出したのは、スコットランドの人です。

今日あるクリスチャンの大学の先生に、キルギスのヤマトゥの話をしたら、

「そういう考えはあるの知っているけど、私は全く興味がない。彼らは根拠がないことを言っている。」

と軽蔑的に言われてしまいました。やはり大学人は同じ考えをするようです。

一つ一つ歴史を追って行けば、唯一神を信じていた古代イスラエル人が、

日本に到達した可能性は否定できないと思うのですが、

何で「根拠がない」と断言できるんだろうと思いました。

人間が今日持っている知識なんて、明日にも覆されてしまうような、脆いものであると思うのに。

「そういう可能性もあるよね。」

という発想にはならないんですね。

「日ユ同祖」という言葉が、まるで全ての日本人がユダヤ人と繋がっているような

印象を与えてしまう言葉であるというのも、

軽蔑的な感情を引き起こす原因になっているのかもしれません。

日本人の一部に古代イスラエル人の血を引いている者がいる、程度に言っておけばいいのでしょうか。

ある牧師の兄弟は、兄がこの考えを熱心に推進しており、

それに弟は断固反対することで、絶交することになってしまいました。

後に弟の牧師は、この考えを受け入れたみたいですが。

私ははるか昔に、神様が日本の地に足を置かれ、

今に至るまで特別な計画を持って導いておられたことを認めますが、

その確信は、結局その考えに賛同する人達だけのものでしかないのかもしれません。

今日本の人達の心は荒廃し、神様を認める人も絶え、亡国の足音が近づいてきている気がします。

そんな時、神様は日本人の名を呼んで、「目を覚ましなさい」と警告されないでしょうか。

先程の大学の先生は、聖書の預言書について勉強会を開いて下さいましたが、

預言という行為はイエス・キリストまでであって、今はそのようなことは行われない、

とこれまた断言されていました。

「もし国が亡びそうな時は、そのような警告を発する人は現れないのですか?」

と尋ねたら、

「今は聖霊が各人に与えられているので、必要に応じて対応することになるだろう。」

という返答が帰ってきました。

確かに聖書も矛盾していて、確かにイエス様は「律法と預言は私までである」と仰っているのですが、

だけど他の箇所に「預言することを切に求めなさい」とも書かれていて、

一体どっちなんだ!と混乱してしまいます。

ですが、私自身は人に啓示されたことも重視しています。

例えば昨今、「日本はエフライムである。」ということが、

日本の各地のクリスチャンに示されているという事実があるのですが、

それは神様から出た言葉だろうと判断しています。

閉じられた言葉をしかるべき時に開かれるのは、神様のなさる業だと思っています。

そのような神様の視点を共有させて頂いて、歴史を眺めるのは

神様を信じる人の特権だと思っているのですが、

悲しいかな、同じクリスチャンであっても、

この日本に対してそういう視点を持てない人もいるということです。

当たり前か。

聖書の言葉の捉えの深度は、その人の物の見方、経験値、

感情(聖書を感情で捉えるな!とよく言われますが)・・・etc.によって変わってきますよね。

若い時には単純に、神様の霊は一つ霊だから、皆の捉えは同じだと思っていましたが。

結局人は自分の見たいものを見、見たくないものを見ない、ということなのでしょう。

でも、過去に残された数多の雑多な情報の中から、

神様のご意志を感じ取っていくのも、神様を信じる人の役目ではないでしょうか。

その姿勢は人から見ると、都合のいいように遺跡を継ぎはぎし、

自分達の文脈に合うように解釈しているだけに過ぎない、と思われるかもしれません。

神様の視点がなく、事象を並べただけのものを見つめるだけでは、

何の意味もないように感じます。

というか果てしなさすぎて、気が狂いそうにならないでしょうか。

存在の耐えられない軽さ?

最後に、「龍馬の黒幕」を書いた、加治将一さんの前書きの言葉を紹介して終わります。


「私はこの世に歴史はないと思っている。

電車は通過しても線路の上に存在するが、事象は通過したとたんに消えてなくなる。

残るのは、怪しげな書簡と危うい遺跡と心許ない口伝だけだ。

それもごくわずか、米粒のごときである。

国の支配者はそれをいいことに好き放題料理する。

虚を実にし、実を虚にして都合よく造ってゆくのだ。

小説家もまたしかりだ。

その陽炎にも似た米粒を拾い集めて、自分の歴史などというものを描くのである。

加治将一の歴史』の土台は常識だ。

政治の常識、商売の常識、喧嘩の常識、フリーメーソンの常識・・・」