今日苦痛を感じながら礼拝に出席したのですが、
既に行く前から苦痛を感じ始めていました。
それで事前に祈って出かけたのですが、礼拝中もじわじわと心の苦痛は増していきました。
よせばいいのに、その後の勉強会にも出席してしまい、
その苦痛の上塗りをしてしまいました。
教会にいるほとんどの人達は、一様にどよーんとした表情で、
こちらに対しても常によそよそしく、神様がその人の内に
生きて働いておられることが、まるで感じられないのです。
数人の人を除き、この教会には神様の霊(または神様の霊を宿す人)がいない!
とますます感じるようになってしまいました。
これじゃあ新会者がいたとしても、びびってすぐ去っていくだろうなあ、
自分も苦痛を感じている位だし・・・
先日あるクリスチャンと知り合いになったのですが、
自分の感覚ではその人は「生きた」クリスチャンでした。
その人もあちこちの教会を訪ねて、しかるべき所を探していたそうです。
その人からメールをもらったのですが、
「教会はもはや真理を教える場所ではない。」と書かれていました。
私が今お世話になっている教会では、牧師さんは別に狂信的でもないし、
伝統的な教えを、地道に真面目に教えて下さっているように見受けられます。
真理から決して大幅にずれているわけじゃないのに、
何かが大きく欠落していると感じざるを得ません。
それは聖霊の火花といったものかもしれません。
その火花は温かさや思いやりといった、愛も生み出す力があると思います。
それが欠けているのに、当の本人達はまるで気づかず、
「何故教会に若い人達が集まってこないのだろう。」
「教会に来なくなったり、休みがちになるのは、本人が怠惰だからだ。」
と問題がどこにあるのか、見当がついていないようです。
牧師が知識に偏重し、霊的な事柄に対して疎い人だと、
信者は何か遠い所に連れて行かれるような気がします。
「聖霊は逃げる」でも書きましたが、最初は神様の霊に燃えていても、
習慣化したり、地位に安住していたりすると、
徐々に神様の霊が薄まっていくことを、クリスチャンは知るべきです。
神様の言葉は霊だといいます。霊は霊によって理解できると聖書にあります。
話す言葉に霊が伴っていないと、人の心を剣で刺し通せなくなってしまい、
結果その聴衆は何も変わらず、だら~んとしたままの状態に留まるのでしょう。
牧師のために祈るのは教会員の仕事とよく言われます。
結局そのようなだら~んとした状態を愛しているのは、
自分達であるということも忘れてはいけないと思います。
「御霊を消してはならない」
http://www.geocities.jp/ou7540jp/yo39.html