天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

聖霊は逃げる

「神様が自分を愛して下さっている」

という感覚がしばらく続いたことがあって(ずっとじゃない!)

「ああ、これなら世界のどこに行っても寂しくないな。」

と思っていたことがありました。

しかし、あれよあれよという間にその感覚は消えていきました。

思い返してみると、その前にある信仰の告白があって、

長年抱えてきた自分の罪を清算したことを、神様は喜んで下さったのかなと思いました。

その安心感、自信感、あの時の感覚よもう一度、

と願うのですが、なかなか戻ってきません。

なぜだろうと思って、神様が喜ばれることを、

分かっているのにやっていないことが沢山あって、後回しにしていたり、

自分のわがままからその気持ちを押し込めていたり。

全然神様が喜ばれることをしていないなあ、と認めざるを得ませんでした。

自分の内にもし聖霊を宿しているならば、聖霊が願うところの自然な気持ちを

そのまま素直に行動にあらわしたらいいのかなと思います。

しかし一方、強力なわがまま人間も自分の内にいて、

聖霊と相撲を取って、いつも聖霊を投げ飛ばしてしまう感じもしています。

静かな清い霊がそこにいるとしたら、こんなやかましい居場所(内面)は耐えられないだろう、

と思います。

こうした体験から聖霊は去っていきやすいということが分かったので、

変な話、聖霊を頂いたらいかにキープするかが課題だと思いました。

そんなこんなでいつも自分の内側は格闘しているのですが、

人は自分のこの内面の格闘を知る由もない(笑)。

前にご紹介したKeystoneさんという方の証に、面白い話がのっていて、

せっかくその場を祈りと讃美で清め、聖霊がその場を満たしていたのに、

子供がピアノで「ねこふんじゃった」の曲を思いっきり弾いたので、

聖霊がさーっと去ってしまったということでした。

エス様が地上に来られて、33年間人間と共に生活された時、

罪ある人間達に囲まれて、どんなに辛かっただろうと思います。

大群衆にお話しされた後、イエス様はさーっと逃げるようにして

遠ざかっていかれましたが、人間が発する悪い気から逃れたかったのでしょう。

自分も悪い気を出さないようにと祈りながら生活しますが、

思えば思うほど逆効果になっているような。

ある牧師先生は、そんなクリスチャンの内面の態度を見て、

「そんな反省ばかりしているような態度はやめなさい」

と言われましたが、気になるものは気になる。

いつかこんな風に格闘することもなくなって、

自然とよきことをすることができるようになるのでしょうか。