天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

アーノルド・フルクテンバウムと偽メシアニックジュー(1)

フルクテンバウム氏(左)

"あなた達の解釈学的原則に見られる基本的な問題は、旧約聖書に書かれていることを解釈するために新約聖書を使っているように見えることですが、それは間違った方法だと思います"ーフルクテンバウム

 

今回は中川健一牧師とコラボしていた人物についてです。ここ数年で日本の福音派のクリスチャンに一気に「患難前携挙説」という偽の教えが広まってしまったのは、レフトビハインドという敵側のプロパガンダ小説と共に、この人物の影響が大きかったと言えるのではないでしょうか。

こちらも以前、両者が出てくるYouTubeの映像を母がよく見ており、当時チラチラとその感想を教えてくれていました。クリスチャンに改宗したユダヤ人の視点から見た聖書の話は、新しい気づきを与えてくれて魅力的に聞こえるようです。しかし、アメリカの神学校などで教えられるトレンドを掻き立てるような最新の教えは、すっかり汚染されていることを知っていたので、そのような教育機関で教えを受けた人の話からは意識的に遠ざかるようにしていました。

こうして距離を置いて客観的に眺めていると、色んなものが見えてきます。

フルクテンバウム氏の額にも聖霊の光を感じません。よって神から遣わされた正しい教師でないことがすぐに分かります。神から遣わされていない自称教師の説に自分の命運を託すことは危険で愚かなことです。このようなことを書くと誹謗中傷のように聞こえるかもしれませんが、問題はそんな浅いものではなく、もっと根深いものです。分かる人には明らかなことであり、気づいた人は、そのような危険をはらむ人間のことを警告する義務があると考えます。

宝石の真贋を見分けるのには、本物をたくさん見ることだと言われます。その人が本当に真の神に属しているかを判断するのには、「聖霊の証印」が押されているのを確認することです。自分は聖霊派の教会出身で、子どもの時から聖霊が宿る人の状態はどんなであるかを多く見てきました。なので、偽物というか、聖霊が宿っていない人の状態も自然と分かるようになりました。しかし、このようなことは特別なことではなく、神を信じる人の基本的な能力だと思っているのですが。。。

誤解されているかもしれませんが、自分は神学というものにほとんど興味がなく、聖書を要素に分解する聖書研究というものも好きではありません。海外の研究者の論文を紹介しているのは、自分が感覚人間なので、信仰というものを理性的な方向から見てみたいのと、流行りのクリスチャンカルチャーから遠ざかっている自分の感じたことが本当に正しいのかどうか、知識豊富な聖書の専門家に裏付けしてもらおうという意図があるためです。

代わりに人の霊(魂?)がどのような状態であるのかがいつも気になってしまいます。この人は清さを保っているなとか、この人は汚れが進んでいるなとか、光を失いつつあるなとか、この人は人間離れしているなとか。同時に自分のことも容赦なく見えてきてしまいます。

なので、教師や信者さんが話す内容よりも、その人の霊的状態の方に目が行ってしまいます。唯一真の神様を信じる人であれば、それぞれの得意分野が神様から与えられているはずで、一人一人それを輝かせる必要があると思っています。ここでは自分のカラーを生かしながら一つの見方を示しているという訳です。

ということで、前置きが長くなってしまいましたが、フルクテンバウム氏の雰囲気に誰かと同じものを感じると思っていたら、ホルへ・ベルゴリオ(フランシスコ教皇)のことが頭に浮かびました。どことなくJDファラグ(あられもない悪魔主義者)にも似ています。彼らにはクリスチャンを装ったマフィアといったものを感じます。背が低めのずんぐりした体型と風貌から、ウクライナのゼレンスキーとも人種的に共通するものがあると思いました。経歴を見るとやはりロシア出身のようで、黒海周辺にいた白人の改宗ユダヤ人、すなわちアシュケナージユダヤにカテゴライズされる人物なのではないかと思いました。

YOUTUBEの色々な映像をチェックしてみると、この人物は、J.D.ファラグの教会にゲストスピーカーとして呼ばれていることが分かりました。ここから両者が協力関係にあることが伺えます。ファラグの教会は偽教師の巣窟である新使徒改革運動(NAR)の急先鋒カルバリーチャペルに属しています。フルクテンバウム氏はイギリスの同系列の教会でも講演しています。氏はイエズス会が創設したダラス神学校の出身で、ここから氏が力説する患難前携挙説のルーツもイエズス会にあることが分かります。

ちなみにフルクテンバウム氏は、トロントプレッシングでの吠え・笑い・転がり現象のことをオカルト信仰だと批判していたようです。しかし、同じトロント信仰の流れを汲むNARのカルバリーチャペルや、JDファラグの教会と関係しているところを見ると、その言動に矛盾を感じます。仲間内をあえて批判し、保守的な信仰者を油断させて自分達の側に囲い込むといういつもの手法でしょう。

説教映像を見ていると、いつものように説教の内容よりも周辺情報が気になります。フルクテンバウム氏が忙しなく両手をポケットに突っ込む仕草The Book of Joel -Dr. Arnold Fruchtenbaum - YouTubeが異様に目につきます。心理学の解説では、手をポケットに入れるというのは心理的安心感がほしい時や、心に隠しごとがある時に見られる行動のようです。氏のあらゆる説教の映像でこの動作が確認できます。「世界的に著名な博士」のこの行動は、彼の単なる癖なのでしょうか。

この博士について警告してくれている海外の人も日本の人も、アミール・ツァルファティについて調べた時よりも更にいませんでした。しかし、フルクテンバウム氏の教えそのものが何かを物語っているようです。氏は「イエスに祈らないように」と語ったということです。確かにイエス様は当時弟子達に「父なる神にはこう祈りなさい」と言われ、自分の名前によって求めなさいとだけ教えて下さいました。しかし、父なる神、御子、聖霊の三者で協働する存在ならば、素朴に考えて、そのうちの誰に声掛けしてもいいのではないかと思います。むしろ氏の発言は、イエスというお方の神性を軽んじさせるようにクリスチャンを誘導しているのではないかと思いました。

(つづく)