天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

成長と熱心さ

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昨日は七夕でしたね。

あいにくざんざんぶりの雨だったので、織姫と彦星は会えませんでしたね。

七夕が好きなので、「さーさーの葉さらさら」と鼻歌で歌いながら近所で笹を物色してきました。

すると笹には何種類もあるのが分かり、神様ってすごい、こんなどうでもいいような植物まで

種類を作っておられる!と感心してしまいました。

・・・ひょっとして人間が後から品種改良してる?

和歌山に来た当初、神社で七夕の短冊に願いを書いて吊るしたのですが、

今年も同じことをその神社でやっていたので、また大きなことを書いてきました。

気が小さいくせに大きいことを願うのは、クリスチャン特有の精神構造か?

自分がやるんじゃなくて神様がやってくださるのだから、願いは大きい方がいいですよね。


その願いなんですが、神様は人間が良くなろうと願わないことに対しても、

「お前たちは願いもしなかった」と怒っておられるのですが、

まず成長は、自分が足りないものだと知るところから始まるのだと思います。

神様の霊を受けている人は、この感覚がものすごくあるので、

自然とその人は成長する方に促されていきます。

なんせイエス様の姿が、理想として絶えず自分の胸に突き付けられるので、

それを意識しないわけにはいかなくなります。

前に紹介した「神は生きておられる」という証を書いた忠さんは、

神様のことを「鬼軍曹」と呼んでいました。

この迫られる感覚をそう感じたのでしょうね。

自分が変わりたいと願う人は成長するし、願わない人はそのままの状態にとどまります。

昨今の教会では、「自分を愛し、人を愛し・・・云々」というフレーズをよく耳にします。

しかし聖書には、「自分を憎め」と書いてあったような。

これは自分の悪い性質とか、足りない部分を憎めということですよね。

ユング的な悪霊がかった心理学のせいで、すっかり人間に甘い教えが教会の教えの中に入り込んで、

人間にやさしく、やさしく、というようなお説教になっています。

はっきりいって、自分の経験上自分のことが好きな人は何か勘違いしている人が多い(笑)

自信のないのは良くないけれど、自信ありすぎるのもどうかと思います。

バプテスマのヨハネは「お前たちまむしの子らよ!」と、

神様の民だと自負しているイスラエルの人々に、お前たちは悪魔の子だ!と真逆のことを言いました。

だから人間は自分のことを冷静に見て、悪い性質を常に帯びていると感じている方が

間違いないのかもしれません。

なぜならそういう人は無限に成長していくからです。

私の隣に座っていたHさんは、すごい仕事のできる人だったのですが、

本人がそれに気づいておらず、「自分なんか・・・」といつも寂しく言っておられました。

しかし彼は自分が欠点だらけの人間だと思っているからこそ、

むしろそんな高みまで成長できたのではないでしょうか。

劣等感の強い人は、最後になって誰よりも成長しているような気がします。

クリスチャンの場合は、聖霊を受けて、劣等感とはまた違う次元の

自分の足りなさを感じるようになるのかもしれないけど。

神様に従ってきた自信と同時に、限りなく低くされている状態が、

クリスチャンの成長した姿ですよね。

最初に戻ると、自分がこうなりたい!と強く願うことが大事なんだなあと思います。

それが御霊の実を成らせるような方向であると、神様はその願いにしたがって

それを叶えて下さると思います。

それには熱心さが必要ですよね。

しつこくしつこく願うこと。

それで神様はその願いが本物であるかどうかを見極めておられると思います。

最近の経験で、賃貸の物件を借りるときに、2つの業者と関わり合いになりました。

1つ目の営業マンは、こちらの願いに対してまるで熱心さがありませんでした。

反応が薄く、かえってこちらが気を遣うほどでした。

2つ目の営業マンは、夜間の問い合わせに対して即座に反応してくれ、

すぐ連絡をしてくれました。こちらの希望も熱心に聞き出してくれました。

しかも物件を見るのに、当日車で近くまで迎えに来てくれるということまで申し出てくれました。

取引をしたいと思ったのは、2つ目の方だったということは言うまでもありません。

ただこんな夜遅くまで、身を削るようにして働いている方の、

健康とご家族のことが心配になってしまいましたが。

人は誰かが心を込めて何かをしている姿勢に、心を動かされます。

神様も私たちのそのような熱心な姿を求めておられるのではないでしょうか。