天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

偶像と私

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、

地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。

出エジプト20:3~5)


数日前帰りのバスでまた不調におちいり、神様に一生懸命

メールを通して叫んでおり、打ち終わったその瞬間、

久々にGod's car(8888ナンバーの車)がバスの脇を通るのを見ました。

「おや、神様久しぶりに見ましたよ」

これは何かの印なのかとふと思いました。

そうしたら以前和歌山でお世話になった、親切なクリスチャン夫婦の

奥さんの方からメールがありました。

神様が私を励ますためにそうして下さったのかもしれないと思いました。

もし神様の車がこうして自分の脇をパトロールして下さっているのだとしたら、

感謝なことだと思います。

そのようなことがあるのにもかかわらず、フリースタイルで

自由に神様を礼拝するようになってから、

「あれ?自分は本当に神様を信じているのかな?」

と怪しむことがあります。

「信じているつもりになっているのかもしれない。」

「主よ、主よと叫ぶ者が天国に入れるのではないしな。」

「本当はもう神様から忘れ去られているのかもしれない。」

しまいに見える教会に行っていない私の姿を見て、知り合いのクリスチャンから、

「あなたは本当にクリスチャンですか?」と言われる始末です。

(私は私でその人のことを「この人本当に心から神に祈ったことがあるのか」

と怪しんでいるのですが。)

確かに人はある程度囲いの中にいた方が、凧の糸が切れたようにならずに

自制できていいのかもしれません。また神様の霊的な囲いというのが確かにあると思います。

そんな自分ですが、こと偶像のことになるとクワッと何かが目覚め、

「ああこんな自分でも神様を信じていたんだぁ」と確認できます。

子供の頃は祖母の家の仏間が嫌いで、暗い仏壇が黄泉への入り口のように感じ、

そこで寝ることになると、息をひそめてまんじりともしない夜を過ごしたものです。

もともと偶像が嫌いだったのが、更にここ近畿圏に来てその思いが強くなり、

あまりにもムカムカしてしょうがないので、

神様に「火を降らせて焼き払って下さい」とまで祈るようになりました。

昔だったら絶対こんなことを神様に願うことはありませんでした。

果たしてこの祈りを神様は聞いて下さっておられるのでしょうか?

さすがに韓国の牧師みたいに自分でオリーブ油をかけたりはしませんが。

奈良に行くとアシェラ像という有名な仏像があります。

皆の誉れ高く「美しい」「きれいだ」と言われているのですが、

そのトータルな造形美に反して、それが蜘蛛の悪霊を象ったものとしか思えない自分がいます。

サタンは美の極みと言われていますよね。

きっと造形的には美しい存在だったのだと思います。

その偽の美しさが人心を惑わせるのだと思います。

さすがに今の日本の若い人は仏像を拝んだりすることもなくなってきていると思いますが。

エス様が地上に来られた後も、上にあげた十戒の第1戒~第三戒は有効ですよね。

というかこのことが最初に来ているということは、一番大事だからですよね?

神様はダメ押しで、同じ出エジプト記の20章23節でこう言っておられます。

「あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。

また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。」

カトリック教徒の皆さん、教会内にある聖人の像、あれは偶像以外のなにものでもありませんよ!

神様はそれを忌み嫌っておられます。

「自分のために、偶像を造ってはならない」「どんな形をも造ってはならない」

とあります。これに関しては弁解のしようがありません。

ということは彫像師は廃業した方がよいことになる・・・

バリ島に旅行に行った時、おびただしい数の神の像、動物の像を見ました。

この島を覆っている空気はただならぬものがあると感じました。

実際この島は霊現象が多いようです。

私が現在住んでいるこの町にも、程度は薄いですがそれに似たものを感じます。

その空気は必ずや人の心や霊的な状態に反映するはずです。

何でこんな町に住むことになってしまったのか・・・

会社の上司は逆に「この街にはいい風が吹いている」と言っています。

その上司はカトリック教会の信者さんで、会社の一角に聖母マリアの像を

「きれいだ」と飾って置いており、ギンギラギンの仏像特別公開のポスターを見て、

「これらの仏さんは見ておいた方がいい」

ということを言っていました。

そう思えるのはその人が鈍感だからなのか、心が綺麗だからなのか。

いっそ偶像があるなんてこと考えないで無視しておいた方がいいのか。

祈りがだんだん激しくなっていっている昨今・・・