「心を尽くして精神を尽くして思いを尽くして主なるあなたの神を愛せよ」
とイエス様は仰いました。
また神様は「私を愛する者を私は愛する」と仰いました。
神様の愛は広大無限で、すべての人類を平等に愛して下さってはいるのですが、
神様の人格(神格?)にも、愛の交流を求めるといった性質をお持ちなので、
より多く神様を愛する者を、神様は愛し守って下さいます。
「彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。」
根っから面倒くさがりの私は、「なんだか面倒くさいなあ」と「心を尽くして」の聖句を避けていました。
そんな性質が果たして自分にはあるのか?と胸のうちに正直に聞いてみると、
「心を尽くして精神を尽くして思いを尽くして自分を愛しています」
というのが本音です。
自分を守るためなら、神様も人も踏みにじります。
普段の生活や仕事における咄嗟の反応で、自分の真の姿が暴露されます。
こいつ悪い実ならせてるな~と、自分でも嫌になってしまいます。
そんな悪い実をそぎ落とすために、人は神様のお取扱いを受けるのですが、
「ヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、たってヨッパに下って行った。」
みたいに、自分もすぐ「や~だね~」と神様の手から逃れようとします。
神様のお取扱いは痛みを伴いますからね。ですが
「道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり」
「傷つくまでに打ちば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる。」
ということを体験すると、
「ああ、厳しい目にあってよかった。人生における新しい地平線が見えてきた。」
ということを思い始めます。
ダメな性質が変えられたことを知って、神様に感謝するようになります。
クリスチャンであろうがなかろうが、火のような体験を多くかいくぐってきた人が、
揺るぎない心の平安と、本当の自信を得ていくんだろうなあと思います。
神様からのハンコというか、お墨付きをもらうというのかな。
昨今の教会では「平安だ、癒しだ」と、いとも簡単に言ったりもするのですが、
本当の平安はそんな簡単に得られない気がします。
神様も「祭司たちは気軽に民の傷を癒し、平安がないのに平安だ、平安だという…」と
言っておられます。
人間は堕落しやすいので、ふわふわした優しさは最初必要かもしれませんが、
あまりそれが続きすぎると、人をだめにしてしまいます。
でタイトルに戻るのですが、心を尽くして精神を尽くして思いを尽くして神様を愛するためには、
やっぱり人間試練が必要だよなーと思います。
心と魂が痛むと、自分の中の精神が総動員して神様を求めるようになります。
何もなくても、神様を求める気持ちが永遠に続けばいいんですが…
そういう恵まれた人も中にはいるかな?!
より御霊の働きに従順だとそうなっていくのかな?
最近自分の自己中さ加減を思い知った出来事があったので、メモしておきました。