天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

神様の言葉と格闘する

前の記事でアホなことを書いていて、スサノオがもし本当に正真正銘のネフィリムだとしたら、

イザヤの子供達は堕天使の末裔ということになり、イザヤ自身も堕天使の血を

引いていることになってしまいます。

中国の皇帝や日本の初代天皇の絵には、頭に角が描かれているという情報もあり、

これらの人々が善の勢力なんだか、悪の勢力なんだか、しまいに分からなくなってきます。

いいネフィリムもいれば悪いネフィリムもいたというし・・・

話は変わりますが、私は現在悪名高い福祉業界で働いているのですが、

毎日が精神修養であるかのような日々を過ごしています。

というか、他の仕事をしていても立派な精神修養だと思いますが。

いかに障害のある方に腹を立てないか、いかにえこひいきしないか、いかに施設長のことを

腹の中で呪わないか(笑)

1分の隙間もないような仕事をしながら、自分の心を放置しておくと、

だんだん人間が干からびていくのを感じます。気づくと上司の悪口を言っていたり。

聖人面もあっという間に剥がされ、どんどん原初の状態に堕ちて行きます。

エゼキエル書に「干からびた骨への預言」というのがありますが、この状態を経験すると、

「あー分かる分かる」と思えてしまいます。

神様はこれらのカラカラになった骨に、言葉を投げかけて肉を付け、筋肉を付け、命を吹き込まれました。

神様の言葉は霊で、この霊は人間を生かす力であり、神様みたいな思いを与えてくれるのだと思います。

なので神様の霊が人間の内に宿っていないと、御されていない野蛮な心になってしまうのかもしれません。

自分の心に人間らしさを取り戻したいと思ったら、神様の言葉に触れればいいのだなと分かります。

聖書で神様の言葉を読むと、痛く感じることがあります。

読みなれてくるとだんだん麻痺してきます(?)が、最初はこんなのできないとか、

怖くて飛ばして読むとか、見なかったことにするとかしていました。

恐れることも愛している証拠?

でもこのビシバシくる感じが、自分の良心が目覚めつつある証拠なのだと思います。

痛いのは嫌だけど、痛くならないと心が目覚めないという。

傷つくまで打たないと人の心は清まらない、と聖書にあります。

聖書を読む人は皆経験していると思いますが、ある箇所の言葉がすごく気になるんだけど、

見なかったことにしようと目をそらせばそらすほど、その言葉が余計気になることがあります。

でも、まさにその言葉が今自分が一番必要とされていることだったりして、

その言葉と取り組まなきゃいけない時なのかなと思わされます。

「御言葉と格闘する」とクリスチャンはよく使いますが、

これって人と格闘するというより、神様ご自身と戦うってことだよなあ。

内なる霊である神様の霊は強いですが、

自分の霊が強過ぎると神様の霊は逃げて行ってしまうようにも感じるし・・・

難しい職場環境の中で、神様と格闘する日々は続きます。