天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

日本人=ユダヤ人説(3)

自分にとっての生きる律法(ルール)とはすごく単純です。

神様を悲しませ、人を傷つけないかということだけです。

これさえ守っていれば、基本的にどんなことでもやってOKだと考えています。

これは神様から来る智恵だと強く確信しているので、自分からこの

考えを奪う何ものもありません。

この心の自由は誰にも奪わせないぞといつも思います。

この感覚をつかむとすごく心が軽く自由になります。

ところがこの感覚のない人は、人間が作ったルールや形に心奪われ

それを守ることに躍起になります。(たぶん)

そのようないわゆる律法主義に縛られていると、精神の自由も縛られます。

日本にはこのような人が多く、たえずお互いを監視し合って、

ルールを破っていないか目を光らせているように感じます。

日本のバスに乗ると「動きます、ご注意下さい。」と自動音声の注意が流れます。

危険かどうかは自分で判断できるし、人間の運動神経はそこまで鈍くありません。

本当にいらぬお世話だと感じます。

それともこうアナウンスしておくことによって、乗客に何か起こった時

バス会社の責任回避をしようという算段なのでしょうか。

この例のように、社会全体で口うるさい母親のように、

いつも「あれしちゃだめ、これしちゃだめ」と先回りして、

危険や間違いを回避させようとする社会なのだと思います。

人間の作ったルールからはみ出す人を白い目で見、仲間はずれにしたりもします。

心が柔軟になっていないと、よいアイディアも湧かず新しい発想も

乏しくなり、前例ばかりを守るようになります。

神様は「新しい歌をうたえ」と仰いました。

創造的に豊かに生きることを神様は望んでおられるのに、

それを殺す方向に日本の社会全体が動いているように感じます。

確かに日本人の誠実さ、仕事の正確さは世界のトップクラスだと思います。

しかし人の心を置き去りにし、機械のように精確であることを第一とする

社会で暮らすのは本当に窮屈です。

その窮屈な社会を作っている最大の原因は、律法主義の精神にあると思います。

古代イスラエル人が神の法を破って、神様に怒って殺されたという話があります。

聖書のこの話を知っている自分にとっては、律法を破ると神様に殺されるという

恐怖を味わった、古代イスラエル人の血を日本人が引いていると言われると、

非常に納得いくものがあります。

病的なまでの潔癖症や律法を守る態度に、それがはっきりと表れているように

思えてなりません。