天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

携挙は起こらない(3)

「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。」(黙示録2:2)

 

上の御言葉の「使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者」というのは、パウロのことを指していると以前にご紹介しました。「使徒と自称してはいるが、その実使徒でない者」=パウロ?(1) - 天国への一歩 (hatenablog.com)

現代の日本に遣わされた預言者であるエリエナイさんのHPに、パウロが偽使徒であることが説明されている キリスト教の創始者パウロ (oo7.jp) のを見ましたが、神様がエリエナイさんに与えられた預言の中で、実際にパウロのことをどのように言っておられるのかを探してみました。自分が見つけた限りでは、以下の二つが出てきました。(太字は自分による)

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平成19年8月13日夜、主は言われた。

「キリスト者、主の群れと称する者たちよ、あなたたちは聞け、耳を傾けよ。あなたたちは高ぶらないようにせよ。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ。わたしが闇をもたらす前に。また、あなたたちの足が夕闇の暗い山々(教会)の上でつまづく前に。さもないと、あなたたちが光を望んでも、それは死の陰に変わる。もし、あなたたちがこれに聞き従わなければ、隠れたところでわたしは、あなたたちの傲慢に泣き、涙にくれ、わたしの目は涙を流す。主の群れが虜(とりこ)にされるからだ。あなたは何と言うのか、彼があなたを訪れる時に。あなたは彼らを、最も親しい友と思い込んでいたのに。女が子を産むときのような苦しみが、必ずあなたをとらえるであろう。まことにあなたは心の中で言うであろう、『なぜ、このような事がわたしの身に起こったのか。』と。あなたの咎(とが)が大きいので、あなたの裾(すそ)は捲(ま)くられ、あなたの姦淫、あなたのいななき、あなたの背信の淫行が明るみに出され、辱(はずかし)めを受ける。これがあなたの受ける分。あなたがわたし(主)を忘れ、偽り(パウロ)に拠り頼んだためだ。」

平成22年8月20日、主はエリエナイに言われた。

「主の民を継いだ使徒たちによる7つの教会(ヨハネ黙示録1~3章)は、パウロのローマ教会によって迫害され、追放された。パウロのローマ教会はカトリックとプロテスタントに分かれ、陸(セイルの山地)と海を得て、各々そこに住んだ。・・・(後略)」

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(管理人)

これらの言葉に瞠目しないでしょうか。ローマ・カトリック教会のみならず、プロテスタント教会も彼の落とし子だと言われています。神様(イエス様?)が直接そう言われているのです。「パウロ、パウロ」といって、パウロを重んずることは、イエス様には耐えがたく、姦淫の罪と等しく思っておられるのです。

クリスチャンはこの言葉を重く受け取るべきではないでしょうか。しかし、聖書の中には、「聖書は一言一句誤りのない神の言葉」のような言葉が楔のように打ち込まれており(エリエナイさんのHP「捏造され改竄されてきた聖書」の所を参照:預言,終末,福音書とは何か (oo7.jp) )、あくまでもこれを固く信じて離さない人たちは、決してこのことを理解することはできないでしょう。神様は聖書と私とどちらが大切なのかと、いつも嘆いておられるようなのですが。(参照:聖書を偶像化してはいけない | 海南島のヨハネの黙示録 (ameblo.jp) )

ローマ・カトリック主催の世界統一宗教の囲い込みは、もう何年も前から始まっており、私が当時所属していた福音派の教会の牧師は、自分が世界宗教者会議に呼ばれて行って来たことを、説教の中で自慢気に語っていました。ローマ・カトリックと手を携えることは、黙示録の大淫婦の仲間になることであり、彼らと同じ裁きを受けることになります。この牧師はむしろ差し出された手を払い除ける必要があったのです。彼はまた「自分はパウロについています」と、いつも語っていたのでした。上の預言では、「キリスト者の傲慢のために、主の群れが虜にされる」とあります。傲慢なパウロの生み出した子が同じ性質となってローマ教会に虜にされて行くのは、自然の流れなのでしょうか。

念の為、エリエナイさんに携挙はありますかとメールでお聞きしてみました。すると、次のような返事がありました。

「●●様は本気で、主イエスが言われた「天」の意味が、「空中」のことだと思われますか?何のために、何の意味があって、わざわざ「空中」で会わなければならないのですか?主イエスは「天」はどこにあると言っておられますか?」

神様からの預言者が無いと言っておられるということは、やはり無いのです。「携挙、携挙」と騒いでいるクリスチャンは、もう一度考え直してみる必要があると思います。たとえ自分がどんなに携挙に関するような幻視を見たり、何か耳元で囁かれたりしていてもです。パウロはイエス様の目から見れば偽り者で、携挙の概念はそのパウロの言葉からもたらされたものだからです。