天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

携挙は起こらない(1)

少し前に書いていた「パウロは偽使徒?携挙の真偽」シリーズの完結編です。

自分が昔見た神様の預言の言葉、「携挙は偽の教え」。この簡潔明瞭な言葉によって、神様から直接答えをいただいたと思っているので、昔も今も携挙はないというスタンスです。ゆえに、携挙にはそれ以上関心がありませんでした。しかし、一部のクリスチャンが熱心にこのことを訴えているので、どういう訳でそのようになってしまったのか気になり、重い腰を上げて調べ始めました。

携挙があるという一番の根拠になっていると思われる、聖書のパウロの言葉をもう一度じっくり読んでみました。

①「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」(テサロニケ4:15)

②「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(テサロニケ4:16-17)

①で「イエスの言葉に基づいて」と言っているので、実際に会ったことのないイエスから、パウロはどうにかして言葉をもらったか、又は幻視を見せられたりしたかということが伺えます。

ここで注目すべきは、「主が来られる日まで生き残るわたしたち」という言葉です。何と、パウロは自分が生きている間に、イエスと出会うことになると考えていたのです。「決してありません」という言葉から、かなりの確信が見て取れます。パウロのこの言葉によって、当時パウロに教えられた人々は、「イエスがすぐにも来られるぞ!」と、緊迫して待ち構えていたのではないでしょうか。ですが、それは残念ながら徒労に終わった訳です。

思い切り外しているこの言葉を、偽預言と言わずして何と言うのでしょう。パウロが生きている間にイエスは再臨しませんでした。パウロは偽の預言をしたのです。パウロを信奉しているクリスチャンは、これまであまりにもこのことに寛容過ぎました。神は預言者にご自分がこれからなさろうとすることを伝えられますが、預言者はただそれを人に紹介するだけなので、真の預言者の言葉が外れることはないのです。他にどんなに優れたことを言っていたとしても、この一点に限れば、パウロを偽預言者とみなすことが可能です。

その事実をもってしてみると、②の言葉の信頼性は崩壊します。ここではイエスの再臨の様子を表していると思いますが、雲に包まれて引き上げられた者達は、この先天界にイエスと共にずっといることになると言っています。しかし、イエスの啓示である黙示録では、イエスは地上に降り立ち、そこから神に選ばれた者たちと共に、世界を統治し始めると言っています。パウロの言っていることと、黙示録でイエス様の言っていることに、くい違いが生じているのです。パウロにこれらのことを吹き込んだのは一体誰なのでしょう?

福音派では、「聖書は一言一句誤りのない神の言葉」と教えられますが、このこと自体が、聖書全体を編纂した者達(ローマカトリック)が仕掛けた罠です。このように権威づけしておけば、たとえ彼らが聖書を改竄したとしても、誰も聖書の内容に口出しできなくなるからです。彼らはうまいことやりました。さらに聖書に書いてある、「全ての権威に従え」という言葉を振りかざせば、誰もそれに反抗することができなくなるからです。

全知全能の神が自らの手をもって、誤りなく人間に書かせたと思いたいのはやまやまですが、実際はあちこちに矛盾や誤りがあるようです(なので、なおさら聖書は聖霊の導きによって霊的な糧となるように読まれなければならない)。私たちが今手にしている聖書の形になったのは、ローマ帝国の皇帝が招集をかけて編纂させた時のものなので、大いに権力者側の意図が盛り込まれている訳です。(参照:誰がキリスト教を作ったか (oo7.jp) )

新約聖書の後半に無理矢理のように押し込まれているパウロの手紙の数々。これはパウロの教えを、イエス・キリストの教えを正統に引き継ぐものとして権威づけるために、意図的に盛り込まれたものです。ここからローマ・カトリックが、そしてプロテスタントが派生していったのです。

イエスは、「パリサイ派のパン種に気をつけろ」と仰いましたが、何と最大のパン種がパウロであったという訳です。高名な律法学者のガマリエルの薫陶を受けた知的宗教的エリートのサウロ。サタンは今も昔も力ある者を使います。パウロ自身も騙されていたと思われ、なぜ自分がエルサレム教団の人々から排斥されたり、アジアの7つの教会全てに背を向けられたのか、全く見当がつかなかったのだと思います。「私は主から選ばれたと狂ったように言います!」などと、必死に弁明するパウロの姿からそのことが読み取れます。

携挙の最大の根拠であるこの箇所のおかしさが解けるならば、その他の携挙を匂わせるかのような聖句は、自ずから全て誤読であることが見えてきます。そもそも1800年代にイエズス会の司祭によって携挙の概念が紹介されるまで、伝統的な教会の教えにはこの概念は無かったとのことです。そして、そのイエズス会の司祭の説の根拠としていたものは、ある少女が見た幻視だったとのことです。

話は少し変わりますが、あの有名なマザーテレサも同じように(?)、サタンに強力に捉えられていた一人だったようです。マザー亡き後に刊行された「来て、私の光となりなさい」という本を読んでみて下さい。この本はマザーが、生涯に亘り自分を指導していたイエズス会の司祭達とやり取りした手紙を編纂したものですが、これを読むと、マザーの魂はほとんど一生涯暗闇に覆われていてとても苦しんでおり、自分のやっていることに確信が持てないでいたことが分かります。世界の人々はマザーが聖人だという幻想を見せられていただけだったのです。神様の救いは、人に心の明るさと平安をもたらします。マザーの闇は悪魔から来た闇でしょう。マザーもカルカッタでの活動の前に、強力な幻視体験をしていましたが、それが彼女がそうしなさいと真の神から促されていると、大いなる誤解を与えた原因となった出来事です。マザーの見た幻視について読んでみると、イエスよりもマリヤが前面に出てきたり、奇妙なことをマザーに指示したりしており、これが正真の神から来たものでないことがすぐに分かります。パウロの一連の言動にも、マザーと似たような流れを感じるのです。

最近携挙の考えに囚われるようになったクリスチャンの人達は、ティム・ラヘイの小説/映画の「レフトビハインド」の影響もあるのではないでしょうか。ティム・ラヘイはたくさん本を書いたようですが、本の表紙にフリーメーソンのシンボルがあちこち散りばめられているようです。また、彼は統一教会の文鮮明とも親しく、多額の献金を文鮮明からもらっていたようです。何よりもティム・ラヘイの顔写真を見ると、世界経済フォーラムの頭脳ジャック・アタリのような、サタニスト独特の人間離れした汚れの雰囲気を感じます。彼にはクリスチャンを誤導し、悪しき者の計画に対抗する力を失わせ、地の塩として機能できなくさせるなどの役目が与えられているのだと思います。彼が映画や小説の中で展開する終末論は、悪しき者達の陣営が計画する、人々を洗脳するための彼ら自身の終末ストーリーなのでしょう。