天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

イエスの再臨は終わった?(2)

II - ヨハネの黙示録でイエスが語ったこと

黙示録もまた、1世紀に迫った来臨の期待を補強しています。イエスはヨハネに天使を遣わし、これから起こることを明らかにしました。イエスは、AD62年頃、小アジアにある歴史的に実在した7つの教会に直接語りかけ、降臨が間近であること、つまり「時は近づいた」ことを警告しました。最初の節をご覧ください:

「イエス・キリストの啓示(Gk: ἀποκαλυψις: apokalypsis)は、神がそのしもべたちに、やがて起こるべきことを示すために与えたものである。」 (黙示 1:1) (レビ1:1)

「・・・時が近いからである。」 (レビ 1:3) 

イエスは、黙示録の終章で、その同じ約束を繰り返します:

「そして、私に言われた、『これらの言葉は信頼に足るものであり、真実である。』預言者たちの霊の神である主は、天使を遣わして、やがて[Gk: τάχει: tachei]起こるべきことをそのしもべたちに示された。」(レビ22:6)

イエスは、自分を十字架につけた人たちが、自分のパルーシア(来臨)を見るために生きることを預言しました:

「見よ、彼は雲とともに来て、すべての目が彼を見るであろう。」(黙示録1:7)

以下は、黙示録からの他の例です:

「だから、悔い改めなさい。もしそうでなければ、わたしはすぐにあなたのところに来て(Gk: ταχύ: tachy)、わたしの口の剣で彼らと戦おう。」 (レビ2:16)

「それでも、あなたが持っているものは、私が来るまでしっかりと持っていなさい。」 (レビ2:25)

「あなたがわたしの忍耐の言葉を守ったので、わたしもまた、地上に住む者を試みるために、全世界に臨む試練の時からあなたを守る。」(黙示録:10) (レビ3:10 YLT)

「第二の災いは過ぎ去り、見よ、第三の災いが間もなく(Gk: ταχύ: tachy)やってくる。」 (レビ11:14)

「彼は私に言った、『これらの言葉は信頼に足るものであり、真実である。預言者たちの霊の神である主は、やがて[Gk: ἐν τάχει: en tachei]起こるべきことをそのしもべたちに示すために、御使いを遣わされた』。そして見よ、わたしはすぐに[Gk: ταχύ: tachy]来るのだ。この書物の預言の言葉を守る者は幸いである。」 (レビ22:7)

「見よ、わたしはやがて来る[Gk: ταχύ: tachy]、わたしの報酬を携えて、各人が行ったことの報いを受けるために。」 (黙示録 22:12) (レビ22:12)

「これらのことを証言する者は、『確かに私はすぐに来る(Gk: ταχύ: tachy)』と言う」(レビ22:20)。


結論

イエスがパルーシア(再臨)について語ったとき、それは2000年後に生きるあなたや私のような人間に向けて語ったのではありません。彼は、AD30~70年の時代に生きていた、1世紀のクリスチャンに語っていたのです。そして、弟子たちが「死を味わう」前に再臨し、その世代は「これらのことがすべて起こるまで過ぎ去ることはない」と言われたのです。

黙示録では、イエスの降臨の即時性が何度も強調されており、そのうちの7節では、ギリシャ語で「短い、速い、速い」を意味するタキーまたはタチェイという言葉が出てきます。また、いくつかの箇所では、ギリシャ語で「約」を意味する「メロ」という言葉を使って、このことを伝えています。

明らかに、新約聖書は、イエスの弟子たちが生きている間に、「すぐに」到来するパルーシアを預言していたのです。問題は、あなたがイエスを信じるか、それとも漠然とした未来の再臨についての人工的な伝統にしがみつくか、ということです。

(おわり)

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(管理人)

イエス様の帰天後、2000年もの間伝言ゲームをしているうちに、「人間の、人間による、人間のための教え」(これに悪魔の教えが加わる)となってしまい、当時とは似ても似つかないグロテスクな形になってしまっているのが、現代のキリスト教の姿なのかもしれません。

蛇足ですが、聖書の読み方で認識を改めた方がいいと思われるポイントを、自分が把握している中からいくつか書き出してみると、

イエス登場後、預言者はもういない、預言は止んでいる→「私は預言・預言者を完成するために来た」というのは、「自分の登場以前になされた預言を成就するために来た」という意味である。今でも神が備えられた預言者がいて、その時代付近で起きることに関しては、彼らを通して新たな預言が与えられる。(聖書に書かれている昔の預言に固執しなくて良い?)

パウロは最高の使徒である→パウロは偽の使徒である。なので、散らされたイエスの正統な教えの継承者である12弟子が持っていた信仰・聖典を再発見し、それに倣うようにすべき。

聖書は一言一句誤りのない書物である。→我々が持っている聖書は、初代ローマ・カトリック教会によって編纂されたものであり、多分に体制側の都合のいい内容になっている。ゆえに「教会組織」もこれに叶うようになっている。(それでも人の魂を救うのには有益)

「世の終わり」→「世」とはサタンが支配する世界や文明のことをいうのであって、地球が消滅することではない(参照:終わりの日の秘儀 (oo7.jp))。終末の定義を正していく必要がある。イエス様は「地(地球)」を大切にしておられる。「世の穢れ」は「地球の穢れ」ではなく、自然そのものに穢れはない。故に天体を滅ぼす必要もない。(参照:https://ameblo.jp/kainan1933/entry-12790502743.html)) )

聖書は文字通り信じるべきである→箇所による。聖書には創世記の失楽園やノアの方舟、出エジプトの話のように、預言的に書かれている部分がある。単純な物語の姿を借りて、複雑な歴史や深淵な出来事を伝えている場合がある。その通り信じても害はないが、探究したい者にとっては更に深く読み込むことができる。

これらの他にもまだまだ鍵となるポイントが眠っていると思います。しかし、たとえこれらを誤って認識していたとしても、人の魂の救い(悪霊・罪の力からの解放)とは別次元の話であり、致命傷にはならないのだと思います。実際、聖書を字句通りに信じる人々の信仰深さや実践力は目を見はるものがありますし、組織だった教会が存在することによって、人の魂の救いに大きく貢献してきたことは確かです。ただ、こうした人間や悪魔が創作した教えが信仰に入り込むことによって、人の思想に混乱を生じさせ、遠回りさせ、魂に苦しみをもたらす原因になるのだと思います。

「パウロが偽使徒だとしたら、新約聖書そのものが崩壊するのではないか」という意見を見たことがありますが、実際その通りなのだと思います。エリエナイさんに与えられた預言を調べると、イエス様ご自身が「パウロは偽者」であり、そのパウロの作った教会が、「カトリックとプロテスタントに分かれた」と言っておられるからです。プロテスタントの人々は、「我々はプロテスタントだ!」と半ば自慢げに言いますが、神様の目から見るとプロテスタントもパウロとカトリックの親戚だったという。。。

エリエナイさんは、そんな教会という組織から出なさいと言っておられます。海南島のヨハネさんも、組織の中にいる人達は、キリストの弟子たり得ないと言っておられます。神様のご意思ではなく、人間が作った組織のトップの意思の方を尊重するようになるからです。

自分はある時点から、教会組織に属するのを止めてしまっていますが、組織から生活費を得ている教職者のような人々にとっては、収入源を絶たれることになるので、これを実行するのは崖に身を投げるようなものでしょう(実際にやったら神様が本当に助けて下さると思いますが)。自分は教会組織にそこまでしがらみはありませんでしたが、それでも実際にやってみると、頭の中がすっきりし、変な教えの呪縛から解き放たれ、思想的に自由になるのを感じました。

本来エリエナイさんの預言も、旧約聖書のイザヤ書、エレミヤ書などの預言書と同列に、「エリエナイ書」として扱われるべきだと思っているのですが、インターネットで流布している情報を見る限りでは、ほとんどの人がエリエナイさんの存在を無視しているようです。この世では派手に活躍するエバンジェリストのような偽者に大きく吸い寄せられ、本物が見向きもされないということはさもありなんです。

このような思想の擦り合わせは非常に難しく、議論をし出すと大喧嘩に発展しかねないので、いつもここに吐き出すのが関の山なのですが‥‥