天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

散歩と祈り

生来面倒臭がりなので、できるだけしんどいことは避けたいと思ってしまいます。口先の祈りでは「地の塩となれますように」と言ってみるものの、無意識下では「そのつもりはない」と宣言している気がしてなりません。そんなことを考え出すと、ズブズブと泥沼にはまっていくだけなので、深く考えるのは止めた方がいいでしょう。

勤め先で実施している健康プログラムに乗っかって、毎日10キロメートル以上を目標に歩いているのですが、歩き過ぎなのか最近足の軟骨が出てくるようになってしまいました。そんなことはどうでもいい。

飽きないように、8方向位にルートのバリエーションを作っているのですが、それさえも慣れてくると、心が暇になってきます。そこで、歩きながら写真を撮ったり、賛美したり、祈ったりすることを組み合わせるようになりました。最近岸田総理大臣のことを祈ると決めてから、毎日祈っているのですが、自分の飽きやすさは天下一品なので、一体いつまで続けられるのでしょうか。もし岸田内閣が続く限り祈ることができたら、それはもう自分の力ではなく神の業ですね。

ところで祈り始めって億劫じゃないですか?「面倒くさいなあ」と必ず思ってしまいます。この話は異言で祈れる人は無視して下さい。賛美する時も似たり寄ったりです。ですが、我慢してやっていると、何か油がのってくるようになり、最初遠慮がちに祈っていても、だんだん「神様はこのような人間には動かせない大きな山(問題)を動かして下さる」と思えてきて、祈りの内容が大きくなってきたりします。客観的に見ると、「こんな穢多・非人のような者が、このような大きなことを祈っておるわい」と可笑しくなってきます。でも聖書に「神はみなし子や、やもめの女の祈りに耳を傾けられる」とあるので、自分のような弱い者の祈りはむしろ聞かれる可能性が高く(?)この際できるだけ大きなことを祈った方がいいのでは、と大胆になってきたりします。

昨日の夜も、散歩しながら心が暇になってきたので、「面倒臭いけど祈るか」と諦めて祈ることにしました。明日は日曜日で家庭礼拝の日です。家庭でやると、身内の集まりでもあり、どうしても緊張感が薄れ、厳かに神を迎えるという空気がなくなります。しかも女性ばかりだと、我先にと家庭の苦労話や世間話、人の噂話が始まり、神様どころではなくなってしまいます。こういうことがとても嫌で、どうしたものかといつも思ってしまいます。「神様が礼拝の中心にいて下さるように、礼拝が虚しいものにならないように。聖霊様がそれぞれの心に働いて下さるように。人の噂話などの無駄口を塞いで下さるように。」などと祈りました。これが現実化することなんて、きっと半分以上信じていません。ほとんど義務感から無理矢理言語化しているようなものです。祈りが義務でしかないのは、自分にとってそれが切実な問題ではないからでしょう。

そして今日の日曜日を迎えました。大阪の叔母がいつもリモートで参加してくれるのですが、今日は用事があってお休みでした。居間を見ると、母がモグモグご飯を食べています。「あ‥‥やる気ゼロ‥‥。」しかも「今日は大阪の叔母が休みだから、遅らせて始めよう」とまで言い出しました。「神様よりもご飯の方が大事なんかい!」姉もどうやら遅れて来る気配です。最初からだらけムードが濃厚でした。同じ事を繰り返すと人間は慣れを生じるものなので、これはある意味仕方ないことなのかもしれません。

「終わったな‥‥」と諦めの気持ちで礼拝を始めました。姉のリクエストで「大いなる方に」という讃美歌を初めて歌うことになりました。歌い始めると、突然スイッチが入ったように、何か心に熱いものが込み上げてくるのを感じました。そしてイエス様に対する感動で泣きそうになっている自分がいました。「あれ、なぜ突然このようになるのだろう?」自分でも不思議でした。普段何にでも無感動だからです。涙がこぼれ落ちないように、必死に涙腺を抑えていました。その後で賛美の力についてある人の証を読み上げました。悪霊の追い出しをするより、地を神への賛美で満たせ、というような内容でした。

これを姉がかなり神妙な顔をして聞いていました。母も涙が落ちないように、一生懸命堪えて聞いているのが目に入りました。そして、「もっと賛美しよう!」と感動と共に言っているのを見ました。二人の中にも自分と同じように、神様への感動が入り込んだのを感じ、今回の礼拝の中に神様が介入して下さったことを悟りました。礼拝後の無駄な噂話も今回はありませんでした。

「神様は約束を守って下さった。昨日の祈りは無駄ではなかった。今日は世間話もほとんどなかった。これは聖霊様が働いて下さったのだ。聖書を読んでいる時も皆の心が一つになり集中していたのを感じた。礼拝が虚しいものとならずに済んだ。今日の礼拝のために祈ってよかった。」と思いました。

今年の5月からコロナで在宅ワークとなり、毎日歩くようになって、その際に賛美と祈りもまとめてするようになったのですが、人間は無理矢理にでも神様に祈った方がいいということが分かりました。関西にいた時はひたすらメール形式の祈りだったので、口から言葉を出して言語化するというのがどうも苦痛です。しかし、自分のような者の祈りでも神様は聞いて下さるということが分かったので、他の人ももっと積極的に現在の国難のために神様に祈った方がいいのではないのだろうかと思いました。

以上最近祈ってみたことのご報告でした。