天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(5)

体力が回復したものの、私の病状は依然として入院当初と同じであり、投薬も効き目がありませんでした。ある日、主治医が私の所にまた相談を持ちかけてきました。それは胸郭手術をしてみてはどうかという話でした。(中略)

その手術をすれば結核は完治するのかと質問すると、主治医は首を横に振りました。私が受けようとする手術は、悪くなった肺の病巣を切除する手術ではなく、空洞を二回の手術によって右胸の肋骨を七本抜き取る手術だというのです。私はその手術の方法を聞いた時、飛び上がるほど驚きました。治る見込みのないのに、何でそんな恐ろしい目に遭わなければならないのかと思いました。

(中略)このように私は、肉体においては迫り来る手術の恐怖と、そして聖書によって覚醒された罪の苦しみによって、心身ともに弱り果てて軽い肺炎を引き起こし、最悪の事態を迎えたのです。そして七カ月前、自らの命を断つために食べることを放棄し、死線をさまよっていた時と同じように、再び私の意識はもうろうとする危険な状態になってしまったのです。(中略)

手術の肉体的恐怖と、聖書によって覚醒された罪の苦しみの中で肺炎を併発した私は、再び危険な状態に陥りました。どれくらいの混沌とした眠りの日々が続いたでしょうか。その夜私はふと目覚めたのです。非常に意識が冴え渡っていました。そしてあの七カ月前とまったく同じように厳粛な時間がそこにありました。かすかにではあるが遠くのほうで死の足音すら聞こえてくるのです。

私はそっと枕もとに置いてあった聖書を取って胸の上に乗せました。「オレはいったい、この七カ月間何をやっていたのだろうか・・・」と自問しました。あの二月の寒い夜、襲い来る死の恐怖の中から、「神さま!助けてください。このまま死ぬのはいやです。一生涯このベッドの上でもよい、生きていて良かったと感謝して死なせてください」と叫び、聖書の中から神さまを信じることができなかった・・・。そして今、再び死の力が私に襲いかかろうとしている・・・。そのうえ今度は罪の苦しみという重荷まで背負って死ななければならない・・・。

私は深い心のうめきと、みじめさに打ちひしがれました。しかも七カ月前、夜空の星を仰ぎ見つつ、「神さま。私は必ずあなたを尋ね出して感謝をささげます」と誓ったのに、それもできなかったのです。私はもう自分のために悲しむ涙すら出ないほど、みじめな気持ちでした。その暗澹たる思いの中で闇の中を見つめ、死を待っていたのです。私は思いました。「もしこの罪の苦しみだけでも赦されるなら死んでもよい」と。死の向こうの暗黒の彼方までも続くであろう罪の苦しみから、せめて解放されたいと思ったのです。

やがて死の力が追って来るのがはっきりと分かりました。私はその力の前にどうするすべもなく、ただ胸に置いた聖書をしっかりと握りしめておりました。そして絶望のどん底で自らを諦めていた時、突然私の心の中に一つのみことばが光となって鮮やかに映し出されたのです。

『もし私たちが、自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださる。』というヨハネ第一の手紙一章九節のみことばでした。私は非常に驚きました。そのみことばを知らなかったからです。

この七カ月間、私は新約聖書を何十回も繰り返して読み続けていたのです。当然そのみことばも何十回私の目に触れていたはずです。しかし聖書のどのみことばも、罪ある私には隠されていたのです。罪の重荷に苦しんでいた私に重要なみことばであることを見過ごしていたのです。その見過ごしていたみことばが死の暗黒の淵で絶望していた私に強烈な光となって啓示されたのです。

私はそのみことばに、うながされました。「そうだ!私は今まで神さまに祈ったことがない。罪を告白したこともない。この最後の時に、もしこの罪が赦されて苦しみから解放されるなら、神さまにすべての罪を告白してみよう!」と決心したのです。

(つづく)