天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(21)

山が動いた祈り(2)

だいたい聖書に書いてあることが、そもそも大袈裟なのです。イエスが水の上を歩いたとか、五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹したとか、そんなことを信じていない自分が、山を移すことだけを自分の都合で信じようとした愚かさにあきれたのです。

しかし私の心のどこかでは、聖書のその言葉にとらわれていました。私の頭ははっきりと聖書がでたらめを言っていることを認めていたのですが、心の一部分はくすぶっていたのです。

実際によく考えてみると、聖書を信じていないはずの私が、毎日聖書を熱心に読んでいるのです。これは実に不思議なことです。頭では否定しつつも、読まざるを得ない何かが私の心に働いているからです。その何かが私をとらえているのです。私はもう一度考えました。「やり方がまずかったのだ」と。

聖書は、『もし、あなたが心で信じて、疑わないならば、』と言っています。私はそこに重点を置かないで、山が海に移ることばかりを考えていました。そして今度は、『心に信じて疑わない』作業からとりかかりました。目を閉じ、精神の統一をはかり「山よ。海の中に移れ!」と命じました。

私の脳裏にその山が海に移ってゆく情景を描きました。そして心で信じたのです。目を開けてみました。そこには依然として、でんと座っていたのです。その時から私の頭は徹底的に聖書に反抗的になったのです。しかし私はなおも聖書を読まざるを得なかったのです。私の頭がどんなに反抗しても、私の心には別の力が働いていたのです。

二年後に、そのベッドを訪れて私が驚いたのは、その山が根こそぎなくなっていたからです。私は二年前にこのベッドの上で、「山よ。海の中へ移れ!」と命じたことを瞬時に思い出していたのです。これは私だけが持つ驚きです。私はそのベッドに寝ている患者さんに尋ねました。「おじさん。向かいに山があったでしょう?どこへ行ったんですか」するとそのおじさんは、しんどそうに、「海に行ったよ」と答えました。私はさらに驚いたのです。足の震えるのを感じました。

私はその人からもっと詳しく話を聞くために、そのベッドの横に座りました。そしてその人の説明によると、一年ほど前から神戸市の都市計画によって、あの山がブルドーザーで削られ、その土砂がベルトコンベヤーで須磨の一の谷まで運ばれ、それから運搬船に積まれて神戸港に埋められ、今のポートアイランドになったというのです。それを聞いて私は呆然としました。そして山の祈り場に行きました。私は興奮のため、大声で神さまに語りかけました。

「神さま!私は今日あなたの驚くべき御業を見ることができました。私は二年前、あのベッドの中で『山よ。海の中へ移れ!』と命じた出来事を覚えていてくださったのですね。そして今日私にそれを見せてくださいました。私は信じます!あの山が神戸市の都市計画で海の中へ移されたのではないことを。あなたのみことばが移してくださったのです!そして、あなたのみことばを信じるならば、時が来ると必ず実現することを私は信じます。これはあなたから出た出来事です。そしてあなたの御業を私に見せてくださったのです。人は私がそう信じることを笑うでしょう。しかし私の心の思いを知っておられるあなたが、みことばをもって私に挑戦させてくださったのです。私はこれからもあなたのみことばを信じ続けます。あなたのお語りになったみことばが、地に落ちてむなしく帰ることがないからです。」

私はこの時から多くの困難に出会った時、聖書のみことばの中に、神さまの約束を見い出して信じる者になりました。

私の聖書には所々に認め印が押してあります。そのみことばを信じた時に、私はそのみことばに印を押し、日付を記入しました。神さまとの調印を行ったのです。そして、その約束のみことばが実現した時には、完了日を記入して印を押します。私の認印のあるみことばには、未完了は一つも残っておりませんでした。

(つづく)

次回は奥様のことについて語られたことをご紹介して、勝矢さんの証しを終わりにしようと思います。