天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(4)

しかし、そうは思ったものの、彼の聖書がどうも気に掛かってなりません。 そこで彼が本当のクリスチャンかどうかを確かめることにしました。 「Wさん。そこに置いてあるのは聖書でしょう。 聖書にはどんなことが書いてあるの?」 と問いました。

すると彼は鼻先で笑いながら、キリストが処女から生まれたとか、悪魔に高い山につれて行かれて世界中を見せてもらったとか、キリストが水の上を歩いたとか、非科学的な神話を書いているので、ばからしくなって放ってある」と言うので、私は彼が聖書を軽蔑しきっている態度を見て、「しめた!」と思い、聖書を読んでみる価値はあるなと感じました。

彼にその聖書を読ませてくれないかと頼むと、彼は喜びました。 実のところ彼はその聖書の処理に困っているところでした。 捨てれば罰が当たって病気が悪くなるのではないかと恐れ、かといって読む気もしない聖書を大切にしまっておく気持ちもないし、彼は仕方なくその聖書を牛乳瓶の敷き台に使っていたのです。 その説明を小声で話す彼を見て、私は笑いがこみ上げました。 なんと小心な男だろうかと。 彼は厄介者を追い払うように、その聖書を私にくれました。 

私はその牛乳瓶の底の形のついた聖書を開きました。 聖書を開いてまず驚いたのは、意味の分からないカタカナがずらりと並んでいたことでした。 私はそれがキリスト教のお経かと思ったほどです。 そして私の目が聖書の言葉に触れた時、「あっ!」と驚きました。 この聖書の中に、あの時の神さまがおられることを衝撃的に感じたのです。

私の内に注がれた霊的なあの力が熱く熱く燃え出したのです。 喜びに似たエネルギーが私の内に駆け巡るのです。 私は非常に興奮しました。 そして全身を震わせて無我夢中になって聖書を読み続けました。 まったく時を忘れてしまったのです。私をそのように駆り立てたのは、内に燃えるあの霊力だったのです。 

しかし、聖書を読んでいるうちに奇妙なことに気づくようになりました。 私の心は燃えているのに、頭は冷たいのです。 心は神さまを探し求めているのに、頭は聖書の内容について忙しく批判していたのです。 それは丁度、隣のベッドのWさんが聖書の記事を鼻先でせせら笑ったように、私の頭もそうなのです。 聖書の中で奇跡の記事に出会うたびに、頭は拒絶反応を示すのです。 そして私の頭はこう言うのです。 「こんなまずいことを書いているから、誰も聖書を読みたがらないのだ」と。

私が一番不思議だったことは、イエス・キリストという人が十字架の上で悲鳴をあげて死んだことです。 クリスチャンたちはなぜこんな弱い人を信じているのだろうか。 もっとキリストを英雄的に書いておけばよかったのに・・・と注釈するのです。

このように私は、心では燃やされ、頭では疑惑的に批判するという、何とも言えない奇妙な矛盾を抱えながら聖書を読み続けるようになりました。 もし疑惑に満ちた私の頭を、圧倒的に上回る燃えるような霊力がなければ、聖書を読み続けられなかったでしょう。

(つづく)