天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(3)

私は17歳の時から悪の世界で生き抜くために、自分の頭脳を磨くことに専念して来ました。頭がよく切れる人間だけが生き残れると信じてきた人間です。私の悪行のすべてが、この頭脳を働かすことによって計画され実行されてきたのです。しかし、天から注がれた不思議な力は、私の頭脳にではなく私の内側の最も深い所に注がれていたのです。

私は神さまに約束した「神さま探し」にとりかかりました。今までに宗教にまったく興味を持ったことがない私は、どこから始めればよいか分かりませんでした。ベッドの中にへばりついている自分だからです。

昔、学童疎開の時は一年間、村の寺の本堂で寝起きをしていたが、仏像なんかはわんぱく盛りの私には遊び道具のようなものでした。罰が当たるという観念もなかったようです。刑務所の中にも宗教サークルみたいなものもありましたが、無視していました。宗教は一種の商売であると決め付けていました。しかも弱者を騙す悪どい商売だと嫌悪していたのです。

その私がビックリするような体験をしてしまったのです。だからこれはきっと有名な神さまに違いないと思いました。看護婦さんがベッドに来た時、病院の図書室にある宗教の本を全部持って来てくださいと頼みました。しかし看護婦さんは許可してくれませんでした。それは私が何日間も絶食して生死の間をさまよっていた状態だったからです。私は今日から食事をする条件で頼みましたが、「あなたがもう少し回復したらいくらでも持って来てあげます」といって、取り合ってくれません。しかし私にとって神さま探しは一刻も早く見つけ出したい緊急課題です。看護婦さんと何度かの押し問答の末、私があまりにも真剣に懇願するので、とうとう根負けして図書室から数冊の宗教書を持って来てくれました。(中略)

看護婦さんが持って来た数冊の宗教書を、私はベッドの中で読み始めました。どれも私が知っている宗教の本でした。しかし、どの本を読んでも違うのです。違うことが宗教に無知な私に分かってしまうのです。それは昨夜、私の内に注がれた、あの霊的な力が、「それは違う!」と証しするからです。それらの宗教は、人間の知恵と工夫で作られた虚しい宗教であることが直感的に分かってしまうのです。それらの宗教書の中には私が探し求めていた神さまがいませんでした。私は途方に暮れました。「もっとほかの宗教の神さまだろうか?」と考えました。また、変な考え方もしました。「ひょっとすると、これはきっと神さまが私に新しい宗教でも作れと言っておられるのだろうか?」そう考えてしまうほど、私の内には不思議な、そして神秘的な力がみなぎっていたのです。

私はその時キリスト教のあることを忘れていました。看護婦さんが持って来た宗教書の中にはキリスト教の書物がなかったのです。その理由は、この病院の中にはバイブルクラスの集いがあって、その会がキリスト教の書物を別に管理していたのです。そのことが、かえって私によかったのです。神さまは、最初に偽物を先に私に見させ、本物をあとに与えようとされていたのです。今から考えると、神さまは真理に無知な私を確実に救いの狭き門から入らせるように、忙しく働いておられたことが分かります。

私はこの病院に入院して以来、ベッドの中でへばりつき、毎日白い天井ばかりを見つめて来ました。自分がいる病室さえどうなっているのか分かりませんでした。身体を動かせば喀血してしまうからです。しかし、あの不思議な体験をした時からベッドの上に半身を起こすことができ、本も読むことができるようになりました。半身を起こすようになった時、病室全体を見ることができました。

そして何気なく隣のベッドのWさんの枕もとの物置台を見ました。そこに一冊のギデオン協会贈呈の新約聖書が私の目に入りました。その聖書は牛乳瓶の置き台になっていました。私はその聖書を見て、「おやっ。まだキリスト教があったぞ」と思いました。そしてWさんに声をかけてその聖書を読ませてもらおうとしたが、「待てよ」と思いとどまりました。彼が聖書を持っているということは、クリスチャンに違いありません。ところが彼は少しでも喀血すると、「死ぬのが怖い」と大騒ぎします。私はそのことを思い出して、「読まなくても分かる。キリスト教はたいした宗教ではない」と判断したのです。

(つづく)