天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(1)

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だいたい今日の仕事が済んで、YOU TUBEで「雨を降り注ぎ」という聖歌を聞いていました。それからベッドに寝転がり、聖書のページを繰りながら、「雨を降り注ぎ」を口笛で吹き始めました。

腹ばいになりエビぞりの状態になると、口笛の音がよく鳴り響くことに気づきました。それで調子が出て来て、開け放した窓の外にはみ出るくらい「雨を降り注ぎ」を勢いよく吹きました。無心になって吹いていたそのやや後で、窓の外で何か音がしました。「ん?」と思って耳をそば立てると、どうやら雨が降ってきたようです。雨はそれから1時間ちょっと降っていました。口笛と何か関係あるのか(笑)

これから少しづつ勝矢忠(かつやただし)さんの「主は、生きておられる」をご紹介します。無料の自費出版本であり、勝矢さんは既に亡くなっており、本も絶版になっていると思われ、神様の証しなので怒られる心配もないと思い、ここに抜粋してご紹介します。

勝矢忠さんは青年時代に数回服役したことのある人で、お姉さんが教会に誘われるようになり、忠さんの救いのために、クリスチャンのパン屋のおじさんと一度だけ祈ったことがあったそうです。以下はその後結核を患い、死線を彷徨うようになってからの話しです。

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「主は、生きておられる」(抜粋)

勝矢忠:著

 

しかも私が最後の時を迎えようとしているのに、誰もそばにいてくれる人もいない、涙を流して悲しんでくれる人もいない、なんと寂しい死に方だろうか、自ら人生を捨てて死ぬことを覚悟していた私が、それらの思いに迫られると耐え難いものを感じたのです。「こんなみじめな人生だったら、生まれて来なかったほうが良かった・・・」と、自分の人生を呪いました。

実際、私という人間がこの世に生まれてきたから多くの人々は被害を受け、傷つき、悲しい思いをさせたのです。私は自分の人生のどこを見ても、生まれてきて良かったという思い出はなかったのです。それらのことを思うと、死に直面した私の良心は初めて痛みを覚えたのです。

私は心の中で思いました。この悪辣な私の人生の最後のこの時でもよい、何か一つだけでも良いことをして死にたいと思いました。それが人間として生きてきた証しのように思えたのです。

その時、私はふと思いました。それは隣のベッドで寝ているWさんのことです。彼は時々喀血します。そのことを彼は必要以上に恐れていました。そして彼は、「死ぬのが怖い・・・」と言って泣くのです。私は最後に彼を慰めて死んでやろうと思ったのです、「Wさん、死なんか怖くない。ちょっと我慢すればすぐに過ぎ去ってしまう。死後の世界なんてない。死は生まれる前と同じ無になることだ。だから怖がることはないよ」と、言おうとしたが声が出なかったのです。私は声を出す力も失っていたのです。残念だなと思いました。最後のたった一つの良い試みも失敗したのです。「オレの人生は、とことんついていないなあ・・・」と、がっかりしました。

私は死の準備にかかりました。痩せて枯れた木のようになった骨張った両手を胸の上で組みました。朝になれば肉体は硬直しているに違いありません。お世話になった看護婦さんが私の両手を組ませる手間がはぶけるとサービスしたのです。

そして静かに死を待っていた時に、やがて闇の遠くの彼方から、私の死が近づくかすかな音が聞こえ出したのです。それはまるで忍び寄る足音のようでした。その音に私は神経を集中させながら、私は自分に言い聞かせました。「死なんか怖くない。生まれる前と同じ無なんだ。もう少しの辛抱だ・・・」と。

その死の足音は徐々にふくらんで私に近づいて来ました。その音は不思議なことに私の心臓の音と一致していたのです。まるで私の心臓が、その死の足音を呼び寄せているような不気味さを感じました。そして何ともいえない圧迫感に襲われ、死の強力な力が私を呑み込もうとした時、私は思い切ってその死の中に飛び込もうとしました。

しかし、その瞬間!全身に強烈な恐怖感が走り抜けました。

(つづく)