天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

リバイバルの障害(3)

今日は教会堂の建築熱の盛んな病的時代である。

しかし油注ぎを受けた説教者なくしては、それらの祭壇はもだえる悔改者を決して

見ることはないであろう。最新式のレーダー装置その他の装具をそなえて

何か月も出漁した船がただの一匹の収穫もなくして帰って来たとしたら、

これにたいして如何なる弁解をなし得よう。しかるに幾千もの教会は何週も、

何年も一人の悔改者も得ていない。

不快な事実は、祭壇は火が全く消えているか、あるいは極めて低調であることである。

祈祷会は死んでいるか、死なんとしているかである。

祈りに対するわれらの態度によって、われらは神に対して、御霊によって始められたものを

肉によって完成することができると告げている。

いかなる教会が、伝道者を志願する者に対して、彼らが祈りに用いている時間を尋ねるであろうか。

しかし一日二時間を祈りに費やさない伝道者は、その学位のあるなしを問わず、

一ダース十セントにも価しない。(略)

教会の超自然性はどこにあるのか。講壇においても、文書においても、眠りの霊が近頃の

宗教論争に追いついたように見える。ローマカトリック教徒でさえ、もはやわれわれを

プロテスタント(反逆者)とは呼ばない。私達はただ非ローマカトリック教徒という

味のない名をもって呼ばれている。暗示的ではないか。

地獄(ローマカトリック)は、かの刺殺された時の「多くの淫婦たちの母」のごとく怒らない。

聖徒たちに伝えられた信仰のためにもう一度熱心に戦う者は誰であるか。

わたしたちの油注がれた講壇の勇士たちはどこにいるのか。

人間を漁るべき説教者たちはあまりにしばしば人からの讃辞を漁っている。

かつては説教者たちは御言葉の種を蒔くことを常とした。

しかし今彼らは知的真珠を並べたてる。(略)

この、胎内でなく、墓において生まれ、火と祈りのない魂において育てられたゆえに働かない、

麻痺した力のない説教を追放せよ。わたしたちは説教して後、捨てられる可能性がある。

しかし祈って後、捨てられることはできない。

愛する兄弟たちよ、もし神がわたしたちを聖職に召したもうたなら、わたしはあえて言う。

わたしたちは聖霊の油注ぎを受けなければならない。

あなたの得た一切をかけて、聖霊の油注ぎを得なさい。

そうすれば、わたしたちの不妊の(講壇の)座が、油注ぎのない知性主義のしるしとなることはない。

(「リバイバルの障害」よりP6-8)