現在は「老人は夢を見、娘や息子が預言する」終わりの時代のゆえ、
神様がプロフェッショナルな宗教人ではない人々に御霊を注がれているように思われます。
この本が出版された昭和37年と今とでは神様のご経綸的に状況が違ってきているかもしれませんが、
ここに紹介することにしました。
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祈りのつまずきは、本質的に知的才能と結びついてはいない。(略)
祈りはただ一つのことによって条件づけられている。即ち霊的であることである。
われらは説教するために霊的であるに及ばない。
霊的でなくして説教学的に完全、註釈的に正確な説教をなすことができる。
記憶力、知識、野心、人格に加えて多くの著作、自信、
また名声を得たという意識等により、兄弟よ、今日講壇は、
ほとんど至る所においてあなたのものである。
このような種類の説教は人を動かす。しかし祈りは神を動かす。
説教はこの世を動かし、祈りは永遠を動かす。
講壇はわれらの才能を示すショーウィンドーとなりうる。
密室の祈りは働いて自己に死なしめる。
此の末の時の悲劇は、あまりに多くの死んだ人々が、あまりに多くの死んだ人々に、
あまりに多くの死んだ説教をなしつつあることである。
ああ、なんとおそろしいことよ。わたしが日の下において見た、然り、
正統派の人々の中にさえ見た一つの奇妙なことがある。
それは上よりの油注ぎなくして説教することである。
油注ぎとは何であるか。わたしはよく知らない。
しかし、わたしはそれが何でないかを知っている。
(少なくとも、それがわたしの魂の中にない時わたしは知っている。)
油注ぎのない説教は生命を与える代わりに殺す。油注ぎのない説教者は死から出て、
死に至らしめる香りである。説教者の上に油注ぎがなければ御言葉は生きない。
説教者よ、一切を賭けて上よりの油注ぎを得ていただきたい。
兄弟たちよ、われわれが二倍も霊的になるなら、
近代のいかさまの知性については半分以下になることができるであろう。
説教は霊的な仕事である。頭で生じた説教は頭にとどく。心で生じた説教は心にとどく。
神の下にあって、霊的な説教者は霊的思いの人を生ずる。
油注ぎは、説教者の魂の本棚に向かって羽ばたきしている温和な鳩ではない。
ただ祈りによって得なければならない。油注ぎは、祈りにおいて苦闘し、勝利を得た兵士であり、
説教者に対する神の勲章である。
勝利は講壇で知的弾丸をはなったり、ウィットを飛ばすことによって勝ち取ることはできない。
ただ祈りの密室においてのみ可能である。
それは説教者の足が講壇を踏む前に、すでに勝ち取られているか
あるいは失われているかのどちらかである。
油注ぎはダイナマイトのようなものである。
油注ぎは監督の按手礼を通して来るものでもなく、その説教者が投獄されたところで衰えるものでもない。
油注ぎは刺し貫き、そしてにじみ出る。また甘美にし、和らげる。論理の鉄槌や肉の熱誠が、
石地の心を開くことに失敗したとき、上よりの油注ぎは成功するであろう。
(「リバイバルの障害」よりP5-6)
(つづく)