天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

叔母の異言(4)

葬儀が終わり、いよいよ火葬の時となりました。

叔母は一人お棺の真ん前に立って、大きな声で異言で祈り始めました。

すごい迫力のその後ろ姿を見て、誰も何も言えませんでした。

一心に神様に向かって何か報告しているように見えました。

他でもない、神と対話しているその後ろ姿に感動して、思わず涙が出ました。

叔父を送り出すことが悲しいのではありませんでした。

何故なら叔父は神様のふところに抱かれて、今は地上より安全で最高に

幸せな場所にいるはずだからです。

後で叔母にこの時のことを聞くと、

「もう(異言や神様のことを)隠す必要はないと思ったの。

最期だから、外野が何を言っても私は私のやり方(プロテスタント式葬儀)

でやらせてもらう。何を喋っているかは自分でも分からなかったけど、

夫を最期まで看るんだと神様と約束して、

今それを果たしました、みたいな気持ちだったと思う。」

と言っていました。

ちなみに叔父の姉はカトリック教徒で、

やはり自分達の流儀にこだわりがあるとのことでした。

私は未婚なので分からないことが多いのですが、親族間の付き合いで色々と

確執が生じ、お嫁さんはそれの板挟みになって非常に苦悩するのだと思います。

叔母は豪快なところがあり、貧しいくせに十分の一献金もドカンとするタイプの人でした。

叔父の好きな聖句を数か所葬儀で読み上げましたが、その一つに「サレプタの女」の話がありました。

預言者エリヤが、食べ物がなく今にも子供と死のうとしているやもめの女に、

彼女の一握りの粉と瓶に少しの油でパンを作って持って来いと、残酷な命令を下す話です。

叔父と叔母の人生もまさにこのようなもので、

実際の生活もサレプタの女の話を地でいくようになりました。

神様に自分達の全てを捧げると、神様は溢れるばかりに返して下さいました。

「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない」

何度も不思議な方法で経済的なものが満たされ続けてきたようです。

葬儀の前と後で、3番目の息子さんのお嫁さんが、私や私の姉にキリスト教のことを聞いてきました。

「あれ?この人キリスト教に関心があるのかな?」

一人でも神様のことに関心を持ってくれる人がいればいいなと、

叔母と母と私で企画した葬儀でしたが、このお嫁さんは何かを感じてくれたのでしょうか。

叔母に言わせると、自分が異言を語っている姿をそのお嫁さんが見たことについては、

「何かオカルト的な現象に見えて、一体何なんだろうと思ったと思う。」

と評していました。

自分の夫の実家がキリスト教を信じていることに対し、探りを入れているのだとも。

ですが、このお嫁さんが私に叔父の亡くなる1日前の姿の動画や写真

(なんとピースをしている!)を見せたりしてくれている様子から、

自分達のことを胡散臭いとは感じていないように思えました。

「神様の栄光をお顕し下さい」

という葬儀前の祈りは、叔母の異言によって叶ったのでしょうか。

人が肉体を離れ、魂が神様の元へと帰っていく姿を見るのは神秘的です。

本当に叔父も叔母も人生という大嵐を乗り越えて、お疲れさまでしたというほかありません。

叔父は天国に行くんだと固く信じて旅立ちました。死に際して取り乱したりはしませんでした。

イエス・キリストが私達の魂の救い主であるということを受け入れているからこそ、

最期まで心安らかに過ごすことができたのだと思います。

ちなみに私は緊張しながら、しどろもどろの司会をやったせいか、

葬儀が終わってから1週間放心状態になってしまいました!

これが葬式疲れというやつ?

(おわり)