律法にこう書いてあります。「『私は異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、
彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」
それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。
(コリント毅隠粥В横院檻横押
2週間ほど前に叔父が天に召されました。
肺がんを患い、もうすぐ5年目になる闘病生活を送っていました。
叔母(例のパワフルな大阪の叔母)は、最後まで立派に叔父を看病し続けました。
叔父は生涯通しての躁うつ病を患ってもいました。
叔父の躁うつ病を通して、叔母と叔父は病気を治したい一心で
キリスト教信仰の扉を叩きました。
亡くなる2日前、叔父は興味深いことを言っていたようです。
3番目の息子さんが、かろうじてそれを聞き取っていました。
「白い衣・・・宇宙・・・」
そして亡くなる数時間前、最期に発した言葉が、
「本当はね・・・本当はね・・・」
この続きを言おうと、叔父は何度も何度も挑戦しましたが、息が続かず、
結局この先を言うことはできなかったようです。
叔父が亡くなってから、これらの言葉の続きは何だったのか、残された人々で想像し合いました。
「『本当はね、お前のことが一番怖かった』と言おうとしたんじゃないの」
と叔母が言った時には、皆で大爆笑しました。
叔父が亡くなる数日前、私の母と私が一緒に家庭礼拝していて、
叔父のことも祈っていました。祈りの中で、
「神様が叔父に天使を遣わし、その手を引いて安全に天国へと導いて下さいますように。」
「長く苦しまずに安らかに天国へと行くことができますように。」
などと神様にお願いしていました。
私の母(叔母とは姉に当たる)は、
「本当はね、もう白い衣の天使に連れられて宇宙を見て来たんだ。天国は本当にあるよ。」
じゃないのか、と想像していました。
私は「本当はね、お前にたくさん謝りたい(または感謝したい)ことがあったんだ。。。」
じゃなかったのかな、と思いました。
眠い・・・もう書けない。続きはまた明日。
(つづく)