天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

悪霊化を防ぐために(3)

私の部屋に遊びにやって来た悪霊とおぼしきものは、何処から来たのだろうと思いました。

母が見た蜘蛛のお化けはもちろんのこと、青い光からも良くない印象を

受けたそうです。その話を聞いて、きっと京都にはそのような霊が

うようよしているのだろうと思いました。

和歌山にいた時に、修道士の方に「京都に行きます。」と言った時に、

「どうして京都に行くんですか。」と悲しい顔をされたのをよく覚えています。

その言葉を聞いて、私には

「あんな悪い気が漂っている所に何故わざわざ行くのですか。」

と言われたように感じました。

現在この地に暮らしてみて、それがよく分かるような気がします。

私の出身地の北海道は新しく開拓された土地であり、割と古くからの

因習が無い土地でもあります。北海道の空気感は、やはり関西圏の空気感と違う

ものがあり、こう言っては何ですが、澄んでいるものがあると思います。

それは人の雰囲気や性格にも影響を及ぼしていると思います。

ただし、関西圏は空気のにごり(失礼!)に反比例して、

素晴らしい人格の方も目立っているように感じますが。

ところでこちらに来てから、ある特定の山に何かがあるような気がして、

気になって訪問していたことがあります。

するとその山には決まって古墳が多くありました。

特に三角形になっている山(神奈備山)は神の山とされていたゆえか、

古墳が裾野に密集していることが分かりました。

古代の人達は、山に神が宿る、山に人の魂は帰ると考えていたのでしょう。

エジプト的なピラミッドによる再生思想が日本にも引き継がれ、

このような風習ができたのかもしれません。

また、山にまつわる怪談を読んでみると、山には霊的な怪異現象が

多く発生するようで、死後行き場を失った人の魂は、

どこへ行ったらいいのかわからず、とりあえず山に行くことも多いのではないでしょうか。

人の魂は神様が創られた永久装置というか、ある種のエネルギー体なので、

自然と磁場が強い山に引きつけられるのかもしれません。

山に多くへばりついているそれらの魂が、人間に何かのメッセージを送りたくて、

そういった現象を起こしているのではないかと想像しました。

また霊体は、何らかの作用でくっつくことがあるのではないかと予想しました。

母が見た蜘蛛のようなグロテスクな形の霊体は、人間の霊と自然霊が

組み合わさって出来上がったものかもしれないと思いました。

関西圏では、迷信や古い因習が未だに多く残っているようで、

そういった風習を行うことによって、天に帰れない霊達を、

よけい引き付ける原因になっているように思います。

古神道家の鴨志田恒世さんは、むやみに祠の前で手を合わせたり、

関係のない神社とかに行って手を合わせるものではない、と言っておられました。

下手にそうすると、そこに居ついている霊と関係を持ってしまって、

後からやっかいなことになることがあると。

彼らは自分の慰みのために神のような振りをして、

喜んだり驚いたり困ったりしている人間の反応を見て、面白がるのかもしれません。

私の住んでいる所のすぐ近くにも、歴代の天皇陵となっている山があります。

私の部屋を訪問した霊達もここから来たのではないかと想像しました。

自分の部屋には一切ぬいぐるみとか、人形とか置かないのですが(十字架もない)、

絵は飾ることがあります。

トイレに古い時代の祇園祭の山車の版画を飾っていたのですが、

なぜかそれを見る度に蜘蛛の形を連想させたので、

ここから出てきた可能性もあると思い、一応それも焼き捨てました。

母から話を聞いた後、神を信じているとはいえやはり気持ち悪くなり、

祈ると共に、それらの霊達を対象に聖書の読み聞かせを何度か試みました(笑)

神様から見捨てられた魂というか、神様の元へと帰っていけない魂の末路は

ひどいものだと思います。

人の最後は絶対そうなってはいけないといつも思います。

神様はこれらの行き場を失った魂についてはどう思っておられるのでしょうか。

生きているうちに、既に人の悪霊化は始まっているのだと思います。

神様の言葉に無知であってはならないし、頑迷であってはならないと思います。

心が頑迷な人ほど(自分か?)、火で焼かれるような経験をしないと、

魂が清まったり柔軟になったりしていかないのかもしれません。

神様は人の魂が正しい道を通り、ちゃんと神様の元へと帰ってくるように

いつも願っておられるのだと思います。

悪霊化を防ぐために、神様はそのような経験を人に通らせられるのかもしれません。

最後まとまった。。。