天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

イナリのたたり

何故かずっとアップしなきゃと思っていたものを、ついでにここで上げておきます。


前にご紹介した古神道を探求された鴨志田恒世さんの随想からの抜粋です。

鴨志田さんは、人間の目で不可視な神のように見えるものを、

善も悪も含めて「神々」と称しておられますね。

聖書では家系的に続くこうした呪いも、イエス様のお名前を呼び、

悪霊の縛りから解き放たれることによって消滅すると言っています。


(略)

うち続く人生の不幸をつぶさに体験した彼は、かって、私に何のために生きてきたのか、


ただ苦労の連続だけでしたと告げたことがあった。


人生行路に疲れはてた彼はほほを伝わって流れおちる涙をふこうともせず、

悲嘆にくれながら男泣きに泣くのをみた時、私は本当に気の毒に思い、

なぐさめる言葉もなかったことを今でもよく覚えている。


ある時、あまりに彼の不幸な人生に同情し、彼に水をむけたことがある。


「あなたには茨城の県南の方に親類はありませんか?」


とたずねると、


「私が小学校の時に、祖母から聞いた話ですが、私の先祖は代々が茨城でも

県南に住んでいたが、六代前に東京に移ってきたということを聞いています」


との返事であった。


そこで私は彼に、六代前の先祖が笠間稲荷のご分霊をうけ、家にお祀りしておいたが、


東京に引っ越す時にそのお宮を放置して東京に移ってしまったことを告げた。


そうした因縁によって稲荷たちの恨みをかい、その余波が今日まで続き、長い歳月にわたって、


いろいろな不幸が断続的に続く原因となっていることを指摘しておいた。


先祖は苦しい時の神頼み的に、いわゆるハヤリ神の笠間稲荷のご分霊を受けて、


商売繁盛や家庭の幸福を祈願したので、それは不幸な人生の中におる時は

それなりに真剣であったとしても、


人間はのどもとすぎれば熱さを忘れるのたとえのごとく、安易にハヤリ神の霊力に依存したことが、


そのご何代かにわたる不幸の原因になっていたことを気づかずにいたのである。


そういう世界に祈願をし依頼をすれば、それらの世界の霊魂たちは、その依頼にこたえ数年間は


懸命に働き、一代にして財をなさしめる程の仕事をなしとげるものである。


しかし、彼らは決して人間への奉仕のためにしているのではない。


自分達の目的を達成するための手段としてのサービスであって、人間界に対して


数年間サービスをしたあかつきには、彼らにとって当然の要求として、


彼らが真に望むものを人間界に要求してくるものである。


人間は祈願をかけ、ご分霊を受けて自分の祈願が達成されると、


いわゆるお礼まいりと称して、ささやかな金品をそえて参拝をすませ、


それですべてが片付いたように思い込んでいるが、これは大変な間違いであり


決して事はさように簡単にかたずかないものである。


しかも、その子々孫々に対して要求を続けるものである。


この世における色々な不幸な出来事は、それらの世界からの要求を


気づかせるための手段であり、またその要求がいれられない時の

彼らの人間に対する復讐のしわざでもある。


いかに名門であり財産があり、学識があり社会的地位をもっていようとも、


霊的白痴の人間には、彼らの要求を察知し、これを満足せしめることは

不可能に近い至難の業である。


昔から君子危うきに近よらずとか。


一時の現世利益に目がくらみ心をうばわれて、そのような世界に祈願をし、


要請することは、万物の霊長としての人間の位と自覚において、


厳に戒めるべきことである。これらの所業は厳然として実在される

神々への冒とくであり、知らず識らずのうちに、天意背反の罪をおかすことになるからである。

(鴨志田恒世 著 「幽玄の世界」p.130-132)