言っているだけであって、神様の側からしてみれば、一人ひとりの心が問題なのであって、
神様の気持ちをキャッチして、望まれる通りに行動できる人であれば、
そんな人間が引いた線引きは無意味だということです。
(霊的な視点で見た場合。正しい教え、間違っている教えは依然としてありますが。)
そして神様は全世界を広く見回して、そういう心を持つ人間を探しておられるのだと思います。
イエス様の名前によって2~3人でも集まる場所には、
私も必ずその中にいると約束してくださっています。
正しい霊を受けたとしたならば、必ずや識別力も与えられ、
何が神様の御心か、そうでないかを判断していけるのだと思います。
神様が人をお救いになる方法は、人間が考えるよりも、
もっと幅広く色んな道筋を通してなされるのだと、経験上感じます。
安らかな天上界で長年暮らして、それから地上に降りてきたようなKさんですが、
もちろん人間らしい所、アレ?と思う所もあります。
「教会」に対する考え方が、Kさんと自分はとてもよく似ていると思ったのですが、
他の所でもKさんと自分の共通点があることに気づきました。
Kさん自らがデザインしたパンフレットを見せてもらったのですが、
それを見たとき、「まるで自分が作ったみたい」と思いました。
数年前に自分もチラシを作ったことがあって、それによく似ていました。
色使いとか素材の選び方とか。
Kさんは水色が好きなはずなんですが、
自分も何かと水色のものに目が行ってしまいます。
彼は趣味で合気道を習っているのですが、自分も数年前に習っていたことがありました。
あと二人とも平屋に住んでみたいと思っていることとか。
大きな違いは、Kさんはすごく社交的で活動的なのですが、自分は非社交的で静的なことです。
私は10代の頃修道院に入りたいと思っていたのですが、
キャラ的にKさんを活動修道会だとすると、私はまるきり観想修道会ですね。
修道士と聞くと世捨て人をイメージする人もいるかもしれませんが、
自分の方が限りなく世捨て人に近い(笑)
出会ったタイミングも、Kさんがちょうどホームを始められる準備をされていた頃で、
これらのことをトータルで考えると、神様はやっぱり自分をKさんと会わせるために
和歌山に連れて来られたとしか思えなくなってきました。
(つづく)