天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

家庭礼拝のこと

以前から、家で行っている礼拝の日を、ローマ・カトリックが定めた日曜日から、ユダヤ教で伝統的に行なわれていた土曜日に変えたいと思っていました。今年に入ってからそれを周りに提案すると、特に反対されなかったので、遂に決行することができました。元々神様がそれを願われていたのなら、人間は失礼のないように元に戻すべきだと思ったからです。そのようにしてしばらくの間、「礼拝を土曜日にしたけれど、神様喜んで下さったかなぁ?」と気にしていました。

そんなある日、いつものスーパーに買い物に行くと、すぐ隣の公園がフェンスでぐるりと囲われているのに気づきました。「何やっているんだろう?」と思って、掛けてあるプレートを見たら、どうやら公園を新しくする工事が始まったようです。それでアレっ?と思いました。

いつだったかスーパーからの帰り道、その公園を横切る時に、やはり、「礼拝の日を土曜日にしたけど、神様どう思っておられるんだろう、別に今さらそんなの大した違いじゃないと考えておられるのだろうか。ブツブツ‥‥」と考えていたのです。その時同時に、「この公園汚いよなあ」「きれいになるといいのになあ」などと思っていたことを思い出しました。

それで、「もしかして、いきなり始まったこの公園の改修工事は、土曜礼拝にしたことに対する神様からの返答かもしれない。」と思ったのです。何でも神様に結びつけて考える、単なる自分のこじつけかもしれないので、生活空間が一つ豊かになることに感謝し、「これがもし、あなたがして下さったことだとしたら、ありがとうございました。」と神様にお礼を言いました。

妹にこのことを話すと、「あの公園、開けている割になんか怖い感じだったもんね。」とコメントがあり、そうだ、自分もそう感じていた、と思いました。そして、子どもが遊ぶためにもあの不浄な場所が、新しく綺麗にされてよかったと思いました。もしこれが本当に神様の仕業だとしたら、このような者の小さな呟きにも答えて下さる、何という親切なお方だろうと思いました。見えない神様と話すのは難しいですが、既存のキリスト教会の群れに属していない自分にとって、このように神様と小さなやり取りができた(と思っている)のが嬉しく、心に沁み入ることなのでした。

そのように既存の教会の集まりから飛び出して、もう4〜5年は経つでしょうか。「人を囲い込み、金を集め、組織を維持しようとする教会から飛び出せ!」という号令が、いつしか自分の内から湧いて出て、気づいたら家庭で礼拝を行うようになっていました。「自分達だけが清い、自分達だけが救われている、真理の何たるかを分かっている」と、エリート意識に浸るクリスチャンの仲間になるのも嫌でした。霊的傲慢を肥大させる位なら、何か貧困の中にいた方が、魂のためにかえって安全じゃないのかと思ったのです。ルシファーは高慢のために天から落ちたからです。

そんな中、エリエナイさんのHPにも出会うことができ、隅から隅まで読んで、それこそ目からウロコが落ちました。エリエナイさんを通じて神様が直接発する言葉(そのように自分は感じる)を聞けるようになったことは、自分にとっては大きかったです。そうでなければ、人や悪魔が作った教えの風に吹き回され、本当は神様はどう思っておられるのかが分からなくなってしまうからです。母はずっと「今も預言者はどこかにいるはずだ」と言っていましたが、それを聞かされる度に「ハイ、ハイ」と軽くあしらっていました。しかし、現在も本当にイザヤみたいに神様の言葉を届けてくれる人が存在するということが分かり、驚くばかりです。

神様(イエス様?)がパウロの作った教えに流されていく人々のことを嘆いておられ、今でも律法と預言を大切にされておられることがはっきりと分かったことも良かったです。このイエス様の教えの中に入り込んでいるパウロ教のせいで、クリスチャンの心の中が引き裂かれ、混乱を来たす要因になっているのでないでしょうか。皆さん、ご自分の小さな違和感を大切にして下さい。自分の経験から言えますが、それが大いなる発見に繋がることは多いです。

家庭で行う礼拝は、聖歌や讃美歌を数曲歌い、祈り、詩篇を交読し、聖書の箇所を二章分交読していくのですが、これが楽しく、各自自由に自分の思うことや理解したことを言い合えます。そのため、礼拝といってもほとんど聖書研究を兼ねたものでもあるのですが、教えられるよりも自主的に学ぶ方が、ずっと頭に入ってきます。牧師のような決まった人だけが礼拝で語るのではなく、全てのメンバーがフラットに神様や聖書のことを語れるというのが、最大の楽しさであり喜びではないでしょうか。皆の自由な本音トークを聞いていると、それぞれがそれぞれの形で神様のことに取り組んでいることに感心してしまいます。

エリエナイさんのHPには、「それまで(注:ローマ・カトリックによってニカイア信条が発布される前まで)キリスト教徒の多くは、自らを信者というよりも『探求者』すなわち『神を探求する者』と考えていた誰がキリスト教を作ったか (oo7.jp) と書いてあります。神様を信じる人や、信じていきたい人の姿勢は、本来このようなもので良いのだと思います。深遠なる神の世界のことについては、上の人間が天国の定義を勝手に決め、その鋳型の中に人を嵌め込もうとするのがおかしいのです。ローマ側がパウロの教えと結びついて作り上げた「キリスト教」は、人を一まとめにして扱いやすくする装置の意味合いも強かったと思います。「この世」でさんざん縛りつけられ、ルールを課せられているのに、せめて教会の中では、神と共にある自由を楽しませてくれと思うのです。ですが、教会生活の中である程度型を学び、トレーニングされたことは良かったと思っています。

既存の教会では、牧師や伝道師に質問すると、「あなたにはまだ早い」とか言われたり、こちらに話させなかったり、変な圧を感じることもありました。自由に話せず、結局一方通行になってしまうので、「もう自分の面倒は神様と自分でみるわ」状態になってしまいました。自分が女性であり、聖書の中にあるパウロの「女は黙っておれ」という言葉が、歴史を通してすごい楔となって効いており、そのスタンスから牧師達が接しているということもあるでしょう。確かに女の浅知恵ってあると思います。でもそれは男女の性質の違いであって、女性が男性と違った視点を持つことは、男性がこれを上手に利用すれば、強力な武器になるのではないでしょうか。そういった発想を持てる日本男性はあまりいないと思いますが‥‥。話がそれた。

神様の言葉は鋭く心と魂を斬りつけ、清めるものでもありますが、ただ家庭礼拝では、その斬りつける感じが弱く、自分達の自己満足に堕してしまうのが大きな難点かもしれません。あと、メンバー間で霊的なものや経験の深さが一致していないと、混乱を来してしまう恐れがあります。女性が多いと神様そっちのけで俗な世間話で盛り上がり、聖霊が飛んでいなくなる(?)のも恐い所です。また、家庭を解放してくれている人の負担にならないように、時間の区切りはしっかりとしておくべきだと思います。5人いたら場所は持ち回りにするとかして、1人の人に負担を集中するのは避けたい所です。ある牧師の方は、家庭礼拝はせいぜい10人以下にした方がうまくいく、それより多くなれば分割して新しい集まりとした方がいいと仰っておられました。テクニカルな話ですが。

イエス様も黙示録で言われていましたが、大淫婦と結託している教会からは離れた方がいいです。エリエナイさんも、「真のキリスト者よ、教会から離れ去り、教会の罪に巻き込まれないようにせよ。聖書にこう書かれているからである。」終わりの日の秘儀 (oo7.jp)と勧めておられます。このような難しい時代ですし、いざとなったら一人も辞さないという気持ちでいることも必要だと思うのです。日本にはあえて宗教的組織に属さないと決めておられる方も多いと思います。ですが同時に、神様に仲間を願えば、必ずや同じ志を持つ人々に出会わせて下さるということも信じています。そんな仲間と一緒に、原始教会がそうだったように、家庭での礼拝ができれば心強いですよね。