天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

パウロは偽使徒? 携挙の真偽(4)

14.パウロは、彼が生まれる前に神がエサウを憎んでいることを読者に納得させようとしたとき、手先の早業を使い、聖書を乱用しました。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ人への手紙9:11-14)

これはパウロが自分の描く絵への嫌悪感を予期して、自分自身に明白な問い掛けしているという事実そのものです。「神に不義はありますか?」とは、彼が生まれる前、または善悪を行う機会がある前に、神はエサウを憎んでいたと彼が実際に述べていることは明らかです。間違いありません。

これはローマ9章における、より完全な文脈におけるパウロの立場です。事実上、すべての学者はこれに同意しています。パウロが読者に言っていないのは、「私はヤコブを愛し、エサウを嫌った」という神の言葉が、エサウが生まれる前は語られていなく、ヤコブとエサウの死んだ数百年後に語られたということです。

聖書の最初の本に記録された、「年上が年下に仕える」という預言ですが、この言葉は預言者マラキによって旧約聖書の最後に記録されました。そこではヤコブとエサウ、イスラエルとエドムの子孫の国について語られていました。神はエサウが生まれる前は嫌っていませんでしたが、確かにパウロは我々にそう思わせようとしました。

15.パウロは、神が陶芸家であり、人は粘土であるという比喩を使用して、粘土がどんなことを言っていたとしても、陶工である神は、それをどのような形にするかについては、粘土には発言権がないことを述べました!パウロはエレミヤから陶芸家の比喩を借りましたが、再びそれを本来の文脈から逸らしました。

パウロはそれを使って、本来言われているものとは別の絵を描いているのです。パウロはそれを地獄から来た異教の教えの証拠として使いました。人の人生と運命は、彼らが生まれる前に事前に決定されていると!パウロの言葉は次のとおりです。

「ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」「だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。そこで、あなたは言うであろう、『なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか』。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。」(ローマ人への手紙9:16,18-21)

この教義に対するパウロの見解がどのようなものか、それを証明する比喩を見てみましょう。以下は、陶工と粘土に関する神の言葉です。あなたがこれを読むとき、陶工が粘土で何をするかについて、最終的に誰が責任があるかに注意してください!

「『主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。』それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。」(エレミヤ18:6-11)

16.パウロの教義は、冒涜的な異教の哲学に基づいています。

イエシュアは、正当な理由で、教育を受けていない男性を使徒として選びました。 1世紀の教育を受けた男性(パウロのようなファリサイ派)は、大学と同じようにギリシャ哲学に浸っていました。今日の神学校の卒業生は、左派のイデオロギーに浸っています。

当時のより普及した哲学の1つは、神が悪を創造したという冒涜的な教えでした。そして神は、それをある目的のために創造したとしたのです。哲学は次のようになります。善は悪と対比されたときにのみ理解されます。神は私たちに彼が良いことを知ってほしいと願っておられるので、私たちがそれがどれほど良いかを理解できるように、悪を創造したと!この議論が全く無意味であるということは別として、その前に善が悪と対比されなければならないという前提は、完全に間違っていることを指摘しなければなりません。物事が良くなり続ければ、良いものを理解することが可能となります。

それはまさに神との関係です。しかし今度は、悪人が神によって故意に創造され、滅ぼされるように定められたという、パウロの冒涜的な言葉に耳を傾けてください。

「ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。」

「だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」

(ローマ人への手紙9:16,18-23)

これらの言葉の信じられないほどの冒涜は、大きな一時停止を引き起こすはずです。父の聖霊の働きを、悪霊のせいにすることが許されない冒涜である場合(マタイ12:22-32)、悪人が神によって故意に創造されたと述べるのはどれほど悪いことでしょうか?

ちなみに、神が故意に滅ぼされる運命にある人々を創造されたという考えと対比して、神とペテロが言っていることに耳を傾けてください。

「わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。」エゼキエル33:11

「再び主がおいでになるという約束がなかなか実現しないので、いったいどうなっているのかと思うかもしれません。しかし主は、いたずらに日を延ばしておられるのではありません。一人でも滅びないように、すべての人が悔い改めるために必要な時間を与えようと、忍耐して待っておられるのです。」 2ペテロ3:9

(つづく)

Yeshua and the Law versus Paul the False Apostle – Paul the False Apostle の中の「20 Facts That Prove Paul Was a FALSE Apostle」からの訳です。