天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「主は、生きておられる」(12)

証人への召命(3)

しかし神さまのその御声は、私の心を捕らえて離さないのです。私はその執拗さに腹が立ちました。これは神さまの御声ではなく、神さまと私の親密な交わりを妬んで妨害するサタンの声だと思いました。そして、「神さま、このサタンの声から私を守ってください!」と大声で叫びました。すると、その祈った相手の神さまが、「あなたは、わたしの証し人とならなければならない」という声が返るのです。

私は頑固として抵抗し続けました。今度は駆されてなるものかと決心したのです。その結果は、以前よりも増して私の魂は力を失い、賛美の喜びも消え、神さまとの交わりの道も閉ざされました。

私はヨブのように、突然ふりかかった災難ともいうべきもののために、つぶやきました。そして再び私は、その御声に敗れたのです。こんなに神さまと不仲の状態が続くことに私は耐えられなかったのです。私はもう一度、発想の転換をせざるを得ませんでした。それはもう発想の転換というより、自分で自分に暗示をかけたようなものです。

「今度こそは本物だ。前回の恥をかいただけに終わったのは、神さまが私の度胸を試されたのだ。主の証し人となるためには、ちょっとやそっとの根性では務まらないから、私をテストされたのだ。そして私は三島牧師には不合格と宣言されたが、神さまのテストには合格したのだ。そして私の前回の失敗は、第一に方法が間違っていた。小学生出の私が身のほども知らないで、大学の神学部しか伝道者の門戸が開かれていない所へ相談を持って行ったのが、そもそもの間違いだった。私のような無学の人間でも、証し人として訓練させてくれる所があるかもしれない・・・」と考えたのです。

その時、私の頭にひらめいたのは、K先生が学んでいる関西聖書神学校のことです。私はこの神学校が、霊的に素晴らしい神学校であることはK先生の話で知っていました。先生は私によくバックストン師とかウィルクス師の救霊の書物をせっせと持って来てくださり、その神学校が両氏の霊的な流れを受け継いでいることをも知らされておりました。救われていた私には、それらの書物の霊的な内容を理解することができました。

霊的な知識と理解力は、信仰年数とか無学とはまったく関係がなかったようです。救われているか、救われていないかの違いだということも実感できました。私の心は定まりました。そしてK先生の上司のI先生が病院に来られるのを私は待っていたのです。

集会の当日が来て、集会の始まる半時間ほど前に、私はI先生とそのことについて病院の庭で相談しました。私は今度は強い確信に満たされて語ったのです。I先生は私の話を聞きながら、「あなたがねぇ?」というような顔をされていました。その顔を見ると私は悪い予感がして、だんだんと自信を失いました。そしてI先生は、「あなたの話はよく分かりました。でもあなたは伝道者の生涯の厳しさを知らないから、憧れているのですよ。人から先生先生と呼ばれて伝道者は良いように見えますが、ほんとうに辛い生涯ですよ。あなたにはとても無理だと思います。そんな考えを起こさないで、あなたが退院したら伝道団体の印刷部の仕事に私が世話をしてあげましょう」と言われました。

I先生は私の人間性を十分人間の目で観察されているようです。しかし私は先生の言葉を聞きながら、怒りが沸々と込み上げて来るのを抑えることができませんでした。もう恥ずかしさを通り越して、怒りが頂点に達しようとしていました。その怒りはI先生に対してではなく、神さまに対してです。私はその集会をすっぽかして、聖書を手に持ったまま、怒りで肩を震わせながら山の中に入っていったのです。そして祈り場に着くやいなや、天をにらみつけて叫びました。

(つづく)