天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

信仰の怖い話

クレイジーに思える仕事のバザー活動も一段落し、

せいせいしたので色々書いていますが、最近母から聞いた話もついでにメモしておきます。

信仰者の自戒のために。

私が以前お世話になっていた宣教師の方で、Bさんという人がいました。

このBさんは白人の女性でアメリカ人の方です。

当時50後半位に見えたので、現在60歳以上になっていると思われます。

朗らかで明るい、いかにもアメリカ人らしい気質ので、自分とも気が合うと感じていました。

そのBさんが、母の友人のクリスチャン夫婦の家に泊まった時のこと。

真夜中皆が寝静まった頃、彼女の部屋から獣の叫び声のような唸り声が聞こえてきたのだそうです。

その夫婦の奥さんの方は、この世のものとは思えぬ唸り声に恐ろしくなり、

日本での伝道活動を取り仕切っている、長老のような立場の方に、

手紙を書いてこのことを相談したそうです。

すると返事が、「その話は口外しないように。」とのことだったそうです。

彼らは自分達が清い者、神の働きをしている者、という立場上、

そんなことがあるということを知られることは、

到底受け入れがたいことだったのでしょう。

そのことともう一つ。

そのBさんを泊めた夫婦は、その宣教師団体の活動を支えるために、

家を解放したり、よく献金したり、喜びながら奉仕されていました。

それを見て私も、素晴らしい素朴な信仰を持っている方達だと感心していました。

それなのに、最近さらにその夫婦に、全ての財産を彼らに全て捧げるようにと、

脅迫するかのように言ってきたそうです。

そのことを訴える宣教師達の考えのベースにあるのは、

原始キリスト教の信者達が、財産を全て共有していたことだと思います。

また、そう言ってきた背景には、最近の世界的な信仰離れブームのあおりから、

その団体も金銭的に困窮し始めていたことがあったのかもしれません。

その場には上のBさんと、私とかつて髪の毛の長さのことでもめた、Pさんもいたそうです。

その夫婦がそれを断ると、日本を取り仕切る立場の方が出てきて、

「あなた達には信仰がありませんでしたね。」

と言い放ったそうです。そのご夫婦は、特に旦那さんの方は、

彼らに対し猛烈に怒ったそうです。彼らに対し、自分達なりに精いっぱい

誠意を尽くしてきたと感じていたからでしょう。

その夫婦はその会を去りました。

私が指導を受けた宣教師の方の中には、自分は聖書しか読まないと言っていた方もおられました。

その話を聞いた当時思ったことは、

「確かにそうすることによって、聖書の教えの純粋性は保たれるが、

人類が歴史の中で育んできた豊かなものを放棄することになる。」

ということでした。このようなスタンスでいては、

人格にかなりの偏りが出るだろうと、正直思ってしまいました。

神は歴史を豊かに導かれているお方でもあるわけです。

人間の全ての著作や研究・活動が悪魔の所業と断罪するのは、

早計過ぎるだろうと思わざるを得ませんでした。

彼らにとっては社会はサタンの支配下に置かれており、彼らの輪の中にいて初めて

霊的に安寧に守られるということだったと思います。

この世はサタンの支配下にあるというのは、まさしくその通りだと思いますが、

神様がサイコパスのような者の存在を許しておられ、この世をサタンの支配下に置くのを

許しておられるというのは、人間に備わる神性を引き出すための、

測り知れない深い意図があるように思えます。

この団体の宣教師の方と接してみて、聖書の教えの純粋性は抜群なものがありましたが、

応用力や霊的な実をならせるという点では、社会生活をしてもまれ、

苦しみを多く受けている信者さんの方が、上であると判断せざるを得ませんでした。

牧師や宣教師の立場にある人(他の宗教団体も同様)は、

日本では特に信者さん達から大切に守られ、敬われ、扱われている状況があります。

人は大切にされればされる程、勘違いが高まり、霊的高慢さが養われていくように思います。

私が彼らのもとを離れた後、聞こえて来たのは、そのような典型的な

霊的傲慢さから来ていると思われる、いくつかのエピソードでした。

私がそこにいた時、実は自殺者が一人出たことがありました。

私の身近にいた人で、素朴な信仰の方でしたが、あまりにも素朴過ぎたため、

宗教の世界に色んなことを過信してしまったのかもしれません。

その人はちょうど更年期障害を患うような年齢にさしかかっていたので、

きっと鬱的な状態にあり、自らの命を絶ってしまったのだと自分なりに想像しました。

このことに対し、集まりでは緘口令が敷かれたように、お悔みの言葉もなく、

このことを通して何かを改善しようとか、祈りに繋げようとかの

建設的な意見が、宣教師側から何一つ出なかったことに驚きました。

霊的なことを適切にアドバイスし、皆で彼女のために祈りのサポートをしたり、

生活上のサポートができていたなら、こんなことにはならなかったかもしれないと思いました。

きっと誰も彼女に対し適切な助言をすることができなかったのではないかと思います。

Bさんが悪霊に憑りつかれてしまったのも、きっと何かの隙があったのでしょう。

無理な禁欲状態では、人はヒステリーを起こすようになるとも思います。

その団体を構成する宣教師達は皆独身でした。

自分自身を客観視できず、自分の状態や周りの状態を審神できなくなってしまったら、

その団体や人は、既に霊的に盲目になってしまっているのだと思います。

質素で清潔、純粋な教え、一見エデンの園のように見える場所を離れるのは、

悲しいものがありましたが、自分としては霊的傲慢さを肥大させる位なら、

社会の中で皆と共に苦しむことを選ぶ方がましだと考え、そこを去ることを決めました。

その方がかえって健全なバランス感覚を保てるだろうと思ったからでした。

こう書くと信仰や宗教の悪い所ばかり指摘しているように見えるかもしれませんが、

人格陶冶という面では、教えを受けるということは、

人の成長のためには大いに役立つことだと思います。

ただこのような霊的盲目や霊的傲慢を促進する面も際立ってあるということを、

信仰者はいつも肝に銘じておく必要があると思います。