天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

リバイバルの障害(1)

レナード・ラーベンヒルという方をご存知でしょうか?

彼の書いた小冊子を少しづつ読んでいて、いいなと思った所をご紹介します。

彼が語るリバイバルの話はとても健全だと思いました。

変なリバイバルの情報を圧倒的に見聞きしてきて、すっかりリバイバルという言葉に

嫌気が差してしまっているのですが、そもそもリバイバルというのは

霊的復興のことを言うのですよね?

自分がこの説教者のように語る資格はまったくありませんが、このようなことを突き付けられて

ただ神の御前に頭を下げて「そのとおりです。」というほかありません。

聖霊を失いやすい人間にとって、霊的復興は人生の中で何度も起こる

必要のあることなのだと思います。

ここの箇所の「霊的裸体」という言葉、面白い表現だと思いませんか?

でも神様の目から見たら本当にその通りなのだと思います。

自分が神の霊に不足している、神から来るよきものが圧倒的に足りない、

と自覚することから、復興は始まるのかなと思います。

(読みにくい箇所は少々手直ししてあります)

レナード・ラーベンヒルの紹介文
https://www.scrollpublishing.com/store/leonardravenhilljapanese.html

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われらの周囲には書籍が山と積まれ、聖書の中には欄外の注釈が小道具衣装のように

多く見られる。しかし、われらは神の御霊の御言葉の鋭い真理にほとんどにぶく

なってしまっている。

われらは今日神がかたくなな心の罪人に対して忍耐しておられることに、さほど不思議を感じない。

われらは健康人に対するよりも、盲目だったり耳が聞こえない人々には忍耐して然るべきである。

神が罪人に対する態度もそうである。しかし、眠っている、無感覚な、自我の教会に対する

主の忍耐にわたしは驚く。放蕩の世にある放蕩の教会こそ、神にとって真の難問題なのである。

ああ、破産した、盲目な、高慢な信者よ、われらは裸である。しかしそのことを知らない。

われらは富んでいる。(現在のように機材を所有したことはない)

しかし、われらは貧しい。(現在のように力に欠乏したことはない)

われらは何をも必要としない。

(しかし、われらは使徒の教会が所有していた殆どすべてのものに欠乏している)

われらが霊的裸体で平気で戯れている時、主はその中に立つことができるであろうか。

ああ、われわれは火を必要としている。

罪人を殺し、われらの祭壇を満たす聖霊の力はどこにあるのであろうか。

今日、われらは、祈祷会の状態よりも教会の換気状態にずっと興味を持っている。

「われらの神は焼きつくす火である。」

神と火は不可分である。われら一人一人は、火の小道を歩いている。

その火は、罪人にとっては、地獄の火であり、信者にとっては、審判の火である。

教会が聖霊の火を失ってしまった故に、群衆は地獄の火に向かって行くのである。

(中略)

われらは柔らかな衣をまとい、延々と流れる大河ほどの言葉を用いるけれども、

一さしほどの油注ぎも受けていない人々に飽きている。このような人達は献身よりも、

かえって競争することをよく知り、祈りよりも、かえって推進することをよく知っている。

彼らは伝播を繁殖に置きかえている。そして彼らは教会のきよめより、

かえって教会の幸福を心配している。

ああ、新約の教会と比較して、われらは使徒の標準以下である。健全な教理はほとんどの

信者を健全な眠りの中に陥れてしまった。なぜなら、文字だけでは十分でないからである。

文字は燃やさなければならない。そして文字に「命を与える」御霊を加えるべきである。

文法上に正確で健全な説教、誤謬なき注解は、口一杯に詰められた土と同様に、

味のないものとなり得る。(略)

われらは火のバプテスマを授けられた教会を必要としている。

燃える芝はモーセを導いた。そして、燃える教会は世界を魅惑し、

その中から彼らは生ける神の御声を聞くのである。

リバイバルの障害」よりP70-74