今朝こんなことがありました。
最近更年期または加齢のために、とみに感じるようになってきた焦燥感ですが、
そのために漢方薬を飲んだり、サプリメントを飲んだり、
足のツボを押したり、体操したり、あれをやったりこれをやったり、
何とか治そうと四苦八苦していました。
更年期は病気じゃないと言われますが、そんなことはない、
病気に匹敵する危機的状況です。社会生活に多大な影響を及ぼします。
盲目な医者は自律神経失調症は病気ではないとよく言いますが、
人間の体のバランスが大きく崩れている危機的状態を、病気と言わず何と言うのでしょう。
そもそも人の話を上手に聞けるお医者さんに会った試しがほとんどありません。
そんな視野と心の狭いお医者さんを信用できないので、
基本的に体の不調があったら、まず自分でどうにかするという癖がついてしまいました。
ところで、仏教の教えは自力本願ですよね。
釈迦の教えを読むと、「~したらよい人生を送れるようになる。」と、
もっともな人生哲学を教えてくれています。
でも自分でそれをやれる力はあるのでしょうか?
それをやれる力を下さるのが神様の教えであって、
それはイエス・キリストを通しての祈りからもたらされるのではないかと思います。
この焦燥感を感じている時は、神経がガチャガチャガチャと頭を駆け巡り、
考えがまとまらなくなってしまうのです。
まさしくもう自分ではどうしようもなくなってしまう状況でした。
男性にはこの気持ち、けっして分かるまい。
昨夜寝る前に本を読んで寝ようかと思ったのですが、
神経を休ませる必要を感じ、早めに寝ることにしました。
しかし朝目覚めたら、まだ酷い焦燥感を抱えたままでおり、
自分に残された最後にできることは、神様に祈ることだと思い、
朝一番の起きがけに祈ることにしました。
修道院では早朝に祈祷しますよね。あれは意味があって朝にしているのです。
朝は神の時間、夜は悪魔の時間なのだそうです。
クリスチャンの間では、早朝に祈ることの重要性がよく説かれますが、
分かっていても、ついつい自分の活動を優先してしまいます。
今日の朝はそうも言っていられませんでした。
聖書に「新しい歌を主に」という賛美の紙切れがはさんであったので、
ぼそぼそと2番まで賛美しました。
その後聖書のイザヤ書の53章が開いてあったので、なんとなく朗読してみました。
これはイエス様が十字架に架かられた時のことを預言した箇所です。
自分はすぐ聖書を読むことが面倒くさくなるので、
時々声に出して強制的に読むことにしているのです。
その後、声に出して自分の辛い症状のことをお祈りしました。
祈り終わると、嘘のように先ほどまであった焦燥感が消えていました。
「消えている・・・」
初めから何事もなかったかのようなこの感じ。神の業である・・・
曲がったものがまっすぐに直された感じ、人の罪が赦されるということも、
神にとってはきっと同じ次元で行われるのだろう。。。
この時は、もう焼くなり煮るなりあなたの御心のままという、
神様の前に降参した心の態度が、功を奏したのではないのかと思います。
今日一日は人との関係も、いつもより穏やかに推移していったと感じました。
最近はもう何度もこれに類似したことをここに書いているので、
この展開に飽きられた方もおられるかもしれません。
最近は漢方薬に頼り切っていて、神様へのメールも途絶えていました。
きっと自分はこの世を去るまで、神様に頼って生きていく必要がある人間なのだろう
ということを今日も改めて確認しました。
旧約聖書の出エジプトで、マナは毎日集めなさいと神様は仰いました。
神様からの生きるエネルギー・平安・愛は、人間にとって、
毎日薬なんかよりもまず先に必要としているものなんだと思いました。
皆さんも不安で押し潰されそうな時、暗い気持ちの時、
今すぐ助けが必要な時、イエス様の名を呼んでみて下さい。
イエス様が稲妻のような速さで助けに来て下さるのは本当です。