天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

髪の毛事件

以下のことはクリスチャンの男性には全く関心のない話題だと思います。
しかし女性の私にとっては重大なことでした。

今回私が長年お世話になった教会を、しばらく離れて距離を置こうと思った
きっかけになった出来事が、「髪の毛を伸ばしてロングにして下さい」と
言われたことでした。言ってきたのは男性の伝道師でした。
新約聖書にそう書いてあるから」ということでした。

その教えの根拠となるのが 第一コリント11章13-16です。

あなたがた自身で判断してみるがよい。女がおおいをかけずに神に祈るのは、
ふさわしいことだろうか。 自然そのものが教えているではないか。
男に長い髪があれば彼の恥になり、 女に長い髪があれば彼女の光栄になるのである。
長い髪はおおいの代りに女に与えられているものだからである。
しかし、だれかがそれに反対の意見を持っていても、そんな風習はわたしたちにはなく、
神の諸教会にもない。


女性が髪の毛を切ることは神様の目から見て「清くない」状態なのだそうです。
新約聖書の他の箇所から言っているのだと思いますが、
理想的には一切ハサミを当ててはいけないそうです。

髪の毛を切ることは女の恥なのでしょうか?
家族や自分の周りの、同じグループに属しているクリスチャンの女性とも
よく話し合ったのですが、この教えには奇怪すぎてついていけなくなってしまいました。

私はおかっぱ程度の長さにしているのですが、これで十分長くて女性らしいと
感じていましたし、髪の毛をロングにしないことで自分が清くないと
感じたことは一度もありませんでした。
「長い」というのは一体どこからどこまでが長いのでしょう。

実は今のグループに関わり始める前に、
「女性の信者さんは皆同じアップの髪型にしていて、
服装も同じような恰好をしているな」とすぐに気付きました。
皆、修道院スタイルというのか、それに近い雰囲気がありました。

「伝道師のことを尊敬して、女性の信者は女性の伝道師と同じスタイルなっていくのよ」
と周りの人から聞かされていましたし、
ある伝道師には「信仰の世界に強制は一切ありませんよ」と言われていたので、
このことに関してはすっかり安心していました。

当初、何らかの強制力が働いているのではないか?と直感したのが、
全て自発的なものに任されていると聞かされて信じ込んでしまい、
それについては何ら考えることもなくなっていたんです。
それが10年近くもたって、注意されるとは思いもよりませんでした。

上のコリントの箇所から、ある教会ではベールを被って礼拝するところも
あるようですね。この聖書の箇所をよく読むと、髪の毛を長くすることが
ベールの代わりになるから、本当はベールなんか被らないで、
髪の毛を長くする方がより自然なことだと言っています(?!)

以前通っていた教会では、この教えの過渡期(?)にあり、
もともと礼拝中にベールを被っていたのが、果たして必要あるのかという
議論が起こり、結局本人の自由に任されることになったのを見たことがあります。

調べてみると、この聖書の箇所が書かれた当時、娼婦や不倫の女は
髪の毛を短く切った背景があるそうです。この当時の観点からすると、
クリスチャンである女性は、それらの人達と自らを区別するため、
髪を長くするということは当然のことだったと思います。

しかし、現代はどうなのでしょう。
忙しく働かざるを得ない女性が、生活を便利にするために髪の毛を
切ってはいけないのでしょうか。
現に、私もしばらくロングにしていましたが、仕事がより大変さを増した
こと、ロングヘアにして余計な時間と気を使いたくないなどの理由から
セミロングにしたという経緯があります。

生活を便利にすることなら、自動車、電気、コンピューター、携帯電話を使うこと、
伝道師や信者さんでもやっているではありませんか。

しかもこの箇所の「女性」は、英文の聖書だと
既婚者を指している文脈のようにも受け取れます。
ヘブライ語の原文は分からないのですが...)
私は未婚なのです。もしこの聖書の箇所が既婚者に向けて言われているのであれば、
未婚の女性にそのように指図してもいいのでしょうか。

「上からの通達には全て素直に従うように」
と言われました。私が疑問に思って、伝道師の言葉に従おうとしないのは
まさに反逆の印だと見なされていることを実感しました。

「せめて礼拝中だけでもベールを被らせて下さい...」とでも
頼んでみようと思いましたが、相手の伝道師の様子からそれもむなしいことのように
思われました。

変だと思うことを変だと言ってはいけないのでしょうか。
そのようにさえ言えない環境は果たして健全なのでしょうか。
仮に言えたとしても、その時伝道者は「議論するな」という聖書の箇所を
持ち出してくるでしょう。

もし全く信者さんの自発的な行為にまかされていれば、礼拝に
出席する人達の皆が皆完全に同じ髪型にはならないのではないでしょうか。
霊性が人によって異なっているように、その現れである服装や髪形も
多種多様であるはずです。

それが外面的なところで完全に揃っているということに、むしろ非常な
違和感を感じました。それが異常なことであるというのは、その世界に完全に
浸っている人達にとっては、全く見えなくなっているのでしょう。
むしろ向こうからは、私の態度は非常に我がままに見えることでしょう。

こういうことを家族の中で話していると、9歳の甥っ子が
「なんで聖書に書いてあるのにその通りにしないの」
と一言。ぎゃふん!!