自分は十代まで聖霊派の教会にいましたが、教会にいる何人かの人達の
この世のものとは思えぬ素晴らしく美しい祈りの言葉に、
「この人には神の霊が宿っているのだろう」と、自分が祈るのも忘れ、
耳をそば立てて聞いていたものでした。祈りの賜物ってあるのだとこの時思いました。
神様のなさることは不思議です。
きっとこのような人は会衆を代表して祈り、神の存在を指し示す役割が与えられているのでしょう。
圧倒的な美しさの前では人は恥じ入るばかりです。
祈りの賜物なんてない自分の幼稚園レベルのゴツゴツした祈りは、
とても人に聞かせられる代物ではなく、部屋でひっそり祈るのがよいのだといつも思っていました。
今は独立系の信仰生活を余儀なくされている(?)ので、そのような神の豊かな賜物の現れを、
見ることや聞くことからもすっかり遠ざかってしまいましたが、
当時を懐かしく思い出します。
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祈りの秘訣は、ひそかに祈ることである。
罪を犯している人は祈りを止め、祈っている人は罪を止めるであろう。
われらは無力な破産者にすぎないにもかかわらず、砕かれず、また祈りに額づかない。
祈りは意味深長であり、単純であり、深遠である。
祈りは幼児の口が言うことができる最も単純な種類の言葉である。
しかしまた人間の一切の言葉の及ばない程高いものである。
ナイアガラ瀑布のごとく滔々と流れる烈火の祈りも、神が感銘させられ、
また動かされることを意味するものではない。
旧約時代の仲保者たちの祈りの最も深いものの一つは言葉がないものであった。
即ち「彼女の唇は動くも、彼女の声は聞かれなかった」とある。
ここには言語学者はいない。言い表すことのできないうめきがあるのである。
ただ彼らの仲間のヒステリー的信仰だけを知って、われらの祖父たちの歴史的信仰と、
その意味、働きを知らないとは、われらはかくも新約のキリストの教会の標準以下にあるのか。
(略)現代の教会機構の中では、心配の主なる原因は金であることを誰が否定できよう。
しかし現代の教会を最も悩ましているものは、初代の教会を最も少なく煩わせたものである。
われらの強調は金の支払いにある。しかし彼らの強調は祈りにあった。
われらは金の支払いによって場所を獲得した。しかし彼らは祈りによって場所を揺り動かした。
新約の祈り、御霊による祈り、地獄を揺り動かし、世界を打ち砕く祈りについていえば、
それは決して非常に少数の人々のために、かくも豊かに、かくも多くの人々によって残されたものではない。
この種の祈りには、決して代用物がない。われらがそれを行うか、さもなくば死ぬかである。
(「リバイバルの障害」P10-11より)