精神的な苦しみ、肉体的な苦しみ、人それぞれの苦しみのレベルがあると思いますが、
苦しんだことにかけては自慢できる位だと思います。
今まで自慢したことないけど。
聖書に自分が苦しんだのは平安のためだったと書いてありますが、
まさに自分もそれに当てはまります。
自分のためならず、周りの人のためでもあるのだと強く感じます。
自分も苦しんで、初めて人の苦しみもよく理解することができると思うし、
自分の人格が変えられて、人に害を及ぼすものが剥ぎ取られ、
周りの人に益をもたらすようになるからです。
さんざん神様から遠く離れた場所にいさせられて、
神様無しの悲惨な状態を、いやというほど味わってきた気がします。
地獄を見たわけじゃないけど、垣間見てその片鱗を味わった感じです。
こんな場所に二度と戻っちゃ駄目だと。
だから皆も神様の近くにいた方がいいよ!と力説したくなります。
先日不思議な夢を見ました。
パソコンで林の映像を見ていると、その画面がパーっと明るく輝いて、
何故か神様のご臨在が自分に迫ってくるのが感じられました。
それは巨大な強くて暖かいエネルギーだったのですが、怖ろしい感じはしませんでした。
「罪ある人間にとっては神様は恐ろしい存在として感じられるから、自分も怖くなるのかな?」
と思っていたのですが、ぐーっと迫ってくるエネルギーに向かいあっていると、
自分もそのエネルギーの中に包み込まれていきました・・・
という所で、安心感と幸せを感じながら目が覚めました。
「ああ神様と一緒にいるってこういう感覚なんだ」
とその時思いました。
面白いことに、手に何故か携帯を握っていて、画面を見ると「333」と数字が打たさっていました。
自分は神様の大きな存在の中に抱かれていて、その中を動いているに過ぎないんだ、
という感覚が去ってしまうのが勿体なくて、数日間その記憶に浸っていました。
神様と共にいるという感覚は、アダムとエバがかつて持っていた感覚で、
人間の罪のために今は失われてしまった感覚なのだと思います。
それを取り戻すためには、イエス・キリストの犠牲を受け入れることによって、
神様と和解しなければならないのです。
心の清い人は神様を見るとありますが、自分は別に心も清いわけではないので、
神様を近くに感じれず、地獄の淵で叫んでも、そうやすやすと答えてくれない神様に
逆ギレすることもありました。
今ははっきりと認めます。神様はそんな人間に合わせてほいほいと
ほしいものを下さる安っぽいお方ではないと。
自分の忍耐力、本心、そういったものを引き出すために、
事を起こされるタイミングをじっくり測っておられるのだと。
自分の中のそうしたものを結実させるために、あえて時間をかけておられるのだと。
自分のほしいものを簡単にもらえたとしたらどうでしょう?
感謝が持続しないし、自分の中で努力したという喜びもないと思います。
それが苦しんだ挙句手に入れられたものだとしたらどうでしょう?
一生忘れられない思い出になり、感謝も持続するでしょう。
今でも月に1~2回はうつの坂を転がっていくことがあるのですが、
その時は霊的な感覚も鈍くなってしまう気がします。
自分だけかもしれないけれど、神様から引き離された感じがするのです。
だから簡単にうつと言うけど、この状態は怖いです。
ある日気づいたら神様がいなくなってしまったという感覚。そんな時、
「神様どこにいるんですか?戻ってきて下さーい!!何か悪いことしましたっけ?!」
と焦って祈ったりするのですが、ふっと聖霊の風が通り過ぎるのを感じ、
心が安心を得ることもあれば、何も感じずそのまま悪い状態に
多分神様は変わらずそこにいて下さるのでしょうけれど、
自分の感覚が神様を捉えられなくなってしまうのだと思います。
男性よりも女性の方がこの気持ち分かるだろうなー。
この月毎に巡ってくるインスタント地獄も、神様から引き離される感覚を忘れないように、
神様と共にいるということが、どんなに幸せなことであるかをより実感できるようになるための、
いわゆる一つの恵みなのかもしれません。
なんか支離滅裂な文章(笑)。