天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

神様から引き離される感覚(2)

精神的な苦しみ、肉体的な苦しみ、人それぞれの苦しみのレベルがあると思いますが、

苦しんだことにかけては自慢できる位だと思います。

今まで自慢したことないけど。

聖書に自分が苦しんだのは平安のためだったと書いてありますが、

まさに自分もそれに当てはまります。

自分のためならず、周りの人のためでもあるのだと強く感じます。

自分も苦しんで、初めて人の苦しみもよく理解することができると思うし、

自分の人格が変えられて、人に害を及ぼすものが剥ぎ取られ、

周りの人に益をもたらすようになるからです。

さんざん神様から遠く離れた場所にいさせられて、

神様無しの悲惨な状態を、いやというほど味わってきた気がします。

地獄を見たわけじゃないけど、垣間見てその片鱗を味わった感じです。

こんな場所に二度と戻っちゃ駄目だと。

だから皆も神様の近くにいた方がいいよ!と力説したくなります。

先日不思議な夢を見ました。

パソコンで林の映像を見ていると、その画面がパーっと明るく輝いて、

何故か神様のご臨在が自分に迫ってくるのが感じられました。

それは巨大な強くて暖かいエネルギーだったのですが、怖ろしい感じはしませんでした。

「罪ある人間にとっては神様は恐ろしい存在として感じられるから、自分も怖くなるのかな?」

と思っていたのですが、ぐーっと迫ってくるエネルギーに向かいあっていると、

自分もそのエネルギーの中に包み込まれていきました・・・

という所で、安心感と幸せを感じながら目が覚めました。

「ああ神様と一緒にいるってこういう感覚なんだ」

とその時思いました。

面白いことに、手に何故か携帯を握っていて、画面を見ると「333」と数字が打たさっていました。

自分は神様の大きな存在の中に抱かれていて、その中を動いているに過ぎないんだ、

という感覚が去ってしまうのが勿体なくて、数日間その記憶に浸っていました。

神様と共にいるという感覚は、アダムとエバがかつて持っていた感覚で、

人間の罪のために今は失われてしまった感覚なのだと思います。

それを取り戻すためには、イエス・キリストの犠牲を受け入れることによって、

神様と和解しなければならないのです。

心の清い人は神様を見るとありますが、自分は別に心も清いわけではないので、

神様を近くに感じれず、地獄の淵で叫んでも、そうやすやすと答えてくれない神様に

逆ギレすることもありました。

今ははっきりと認めます。神様はそんな人間に合わせてほいほいと

ほしいものを下さる安っぽいお方ではないと。

自分の忍耐力、本心、そういったものを引き出すために、

事を起こされるタイミングをじっくり測っておられるのだと。

自分の中のそうしたものを結実させるために、あえて時間をかけておられるのだと。

自分のほしいものを簡単にもらえたとしたらどうでしょう?

感謝が持続しないし、自分の中で努力したという喜びもないと思います。

それが苦しんだ挙句手に入れられたものだとしたらどうでしょう?

一生忘れられない思い出になり、感謝も持続するでしょう。

今でも月に1~2回はうつの坂を転がっていくことがあるのですが、

その時は霊的な感覚も鈍くなってしまう気がします。

自分だけかもしれないけれど、神様から引き離された感じがするのです。

だから簡単にうつと言うけど、この状態は怖いです。

ある日気づいたら神様がいなくなってしまったという感覚。そんな時、

「神様どこにいるんですか?戻ってきて下さーい!!何か悪いことしましたっけ?!」

と焦って祈ったりするのですが、ふっと聖霊の風が通り過ぎるのを感じ、

心が安心を得ることもあれば、何も感じずそのまま悪い状態に

転がり落ちて行くこともよくあります。この感覚はまるで芥川龍之介蜘蛛の糸」。

多分神様は変わらずそこにいて下さるのでしょうけれど、

自分の感覚が神様を捉えられなくなってしまうのだと思います。

男性よりも女性の方がこの気持ち分かるだろうなー。

この月毎に巡ってくるインスタント地獄も、神様から引き離される感覚を忘れないように、

神様と共にいるということが、どんなに幸せなことであるかをより実感できるようになるための、

いわゆる一つの恵みなのかもしれません。

なんか支離滅裂な文章(笑)。