天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

龍のこと(6)

龍との関わりの中で、やってはいけないことをやってしまい、これを読む方にも気を付けてほしいので書こうと思います。

山の方から飛んで来る存在が、龍であると分かってからのこと。YouTubeで祝詞を聞いていた時のことです。古代イスラエルと古神道が何か関係しているんじゃないかと思い始めてから、祝詞っていったい何なんだ、という気持ちがずっとありました。「大祓(おおはらえ)の祝詞はすごく効く」と言っている人がおり、唱えると台風を吹き払うなどの経験をしたという話を聞くと、きっと霊の世界に働きかける、何らかの作用があるに違いないと思っていました。

「それにしても神代の天皇の名前を羅列して、これを唱えてどうするのだ。」

自分の部屋のベッドに寝っ転がって、研究のために祝詞を聞いていたのですが、その直後だったと思います。ふと窓の外を見やると、雲の様子が何か変わっていることに気づきました。周囲の雲がぴたりと動きを止めているのです。「!」じーっと見ていると、太陽の光に照らされた雲の虹色の部分が強くなってきて、ユラユラと揺れ始めました。しまいに虹色の光は波うち始め、擦りガラスを通して見るような、ギラギラした輝きを放ち始めました。

すごい存在のアピールのしようで、「見なかったことにしよう」と思い、カーテンを閉めて暫く無視していたのですが、何故かだんだん恐怖心が消えてきて、好奇心の方が勝ってきました。記録に残そうと、その光の変遷の一部始終を写真に撮っていましたが、この行動が彼らを一層刺激しているということに、後から気づきました。

その後、意を決して外に出て、龍が住んでいる山の雲の様子がどうなっているか観察しようと、近くの大学の農場の広い場所まで自転車で行ってみることにしました。町内を大きくぐるりと一周して行ったのですが、途中、たて髪のある龍の大きな姿が、町内の低い空に白い雲の形で現れているのに気づきました。そして大学の敷地に近づいた時、この龍が投影したと思われる灰色の丸みを帯びた雲のかたまりが、遠くに見えていました。それを見た時、いかにもドロドロドロ・・・という太鼓の音が聞こえてきそうな気がしました。

そして農場に着いて自転車を停めた時に、例のグレゴリー・ハレットの紋章のような、Monsterドリンクのロゴのような、タツノオトシゴにも似た小さな白く輝く光の姿となって、龍が自分の目の前に舞い降りて来たのです。目が悪いので、ユラユラ揺れ動いている姿が一瞬タコのようにも見え、宇宙人かと思い、「こっちに来るな!」と強く念じました。すると、向うもぐっと引いた感じが見てとれ、小さな虹色のボールに姿を変化させました。そして動きを止め、上空にじっと留まっていました。両者対峙すること1時間あまり。龍が住んでいる遠くの山の方から、厚く覆っていた雲の塊が少しづつこちらに飛んで来、「こんなこともできるよ」と、龍がそれを操っているように見えました。

そして、日が傾きかけ、冷たい風が吹き始めたので家に帰りました。窓の外で出現し始めてから2時間以上経っていました。こんなに長い間向き合っていたにも関わらず、龍がそれ以上近づいて来なかったのは、もしかしたら自分の見えない所で天使が守ってくれていたのかもしれないと、振り返って思いました。

ということで、YouTubeの祝詞を聞きつけた龍が、私が呼んだと勘違いして、その存在を一層強く表したということが分かりました。この経験から、「祝詞は龍を呼ぶ」ということが分かりました。マントラ(真言)が悪霊の名前の羅列で、それを唱えることによって、彼らを呼び出す効力があるのと同じように、祝詞は龍を呼び出す一種の呪文なのだと理解しました。

歴代の天皇が龍の血を引いていたり、特に神代の天皇が、龍と人間のハーフであるとしたら、彼らの魂は聖書が教えているような天国には行かず、龍神界にとどまり、人間界と接点を持ちながら生きているのかもしれません。彼らは千年単位で修行するということなので、私の所にやってきた龍も、はるか昔からあの山に存在し、仲間と一緒にこの街の気候やその他を管理してきたのだろうと思いました。

同時に彼らは祀られた存在でもあるので、きっと自分が尊重されたい、神のような存在だと思われたい、と思っているはずです。まあ、人間も自分を大事に扱ってほしいと思いますよね。人間よりも遥かに感情や力が強いとしたら、彼らはもっともっとその気持ちが強いわけです。

大阪のパワフルな叔母に、これらの一連の話を打ち明けると、「きっと寂しかったんだよ。気づいてくれて嬉しかったんだよ。」「かわいらしいと思ってしまったんじゃないの。」と言われました。しかし、彼らはそんな生やさしいはずはないので、最終的には浦島太郎のように、関わった人間を自分達の世界に引きずり込もうとするでしょう。この体験を通して、祝詞を唱えることは、彼らを呼び出し、力を活性化させ、人間界と接点を持たせることになるので、本来やってはいけないことなのだと思います。

昔ほどでなくなったとはいえ、日本で祝詞が唱えられているのは、唯一まことの本当の神様から日本人を引き離し、彼らに力を持たせることになるのだと思います。いや、もしかしたら、現在、龍に対する信仰がほとんど弱体化しているからこそ、逆に彼らが焦って、自分の存在をことさらにアピールし始めているのかもしれない。

(つづく)