天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「罪の悔い改め」について

今までこんな風に考えたことはないでしょうか。
富士山が天国だとしたら、富士山に登る道は色々あって、何もキリスト教だけが
唯一の道じゃなくてもいいんじゃないか。他の宗教だって細かい差はあれ、
人が歩むべき道を説いていることだし…

私もなかなかイエス様が示してくださった道だけが、唯一の救いへの道だということが、
なかなかピンと来ませんでした。
よく教会で聞いていた教えに、はっきりと「罪」に対する定義があるのはキリスト教だけなんだよ、
というものがありました。この「罪」を認めない限り、人間の本当の救いはないんだと。

アダムとエバが善悪を知る木の実を食べたときから、人には罪が入り込んだと旧約聖書には
書かれています。人類の先祖に罪が入ってしまったため、罪人でない人は一人もいなくなって
しまいました。この話しを子供じみていると笑う人もいることでしょう。

罪とは「神様から的が外れていること」で、おおざっぱに言えば、神様から見た悪い思いや
行いが全てこれに当たるでしょう。

自分で自覚できない深い所に隠された罪もあります。
自分は普通のいい人だ、模範的な人だと自覚している人は注意が必要です。
そういう風に思っている場合はかえって悪いことの方が多いからです。
何故なら自分をいい人だと思い込んで、省みることをしないからです。
私も中学生位までそのような態度を貫いていました(笑)。

クリスチャンであるならば、誰もが「罪の悔い改め」の大切さをお説教で聞いたことが
あるのではないでしょうか。自分の罪を自覚できないならば、自分の罪を悔い改める事は
できませんし、神様からの赦しをいただくこともできません。

旧約聖書を見ると、神様ご自身の言葉で何度も何度も語っておられます。
「悔い改めよ。我が元に立ち返れ。」
神様は心から悔い改めるとき、必ず赦して下さると約束しておられます。

旧約聖書の例えばイザヤ書とかエレミヤ書を読んでみてください。
神様は罪に対して非常な嫌悪感を持っておられることが分かると思います。
この罪のなだめの供え物として、人類のために、神様の一人子であるイエス様が
十字架にかかって下さいました。

(これは単なる私の想像ですが、神様はあまりにも聖なるお方で、罪だらけの地球上に降りて
来ることができず、人間がどうして神様に背いてしまうのか理解できなかったのだと思います。
そこでイエス様を地上に遣わし、人間のレベルで生活をさせ、実態を把握させられたのかなと
思います。それにしても、神様によってその一人子が罪の償いをするということは、
一体どういうことなのか、深すぎてちょっと思いが及びません…)

人は聖霊の働きによってより強く自分の罪を自覚することができます。
聖霊が強く働かれる場である教会に通う中で、集中的に強く罪を自覚させられることがあります。

これに耐えられなくなってしまう人は、居心地が悪くなって教会を出て行きたくなったり、
教えに拒否反応を示したり、腹が立ったり、とにかく自分の内側の罪をさらけ出されたくなくて、
逃げ出したいと思うことでしょう。
まだクリスチャンになっていない人で、そういう人をたくさん見てきました。
その心の働きは、まさに自分の中の善と悪とが葛藤している状態です。
自分も悔い改める前はそういう感じでしたし、人間の内側の罪の性質は簡単に消え去りませんので、
今でも内なる葛藤は絶えずあります。

自分の体験ですが、こういうことがありました。

ある教会に通うようになって2年近くたった頃、自分の胸あたりの内側に四角い大きな箱の
ような入れ物があって、その中がコンクリートのような固いもので、がんじがらめになっている
ような感じを覚え始めました。
随分長い間そうした状態が続き、遂にそれを抱えていることが苦しくて耐えられなくなって、
ある姉妹達に「すみません、祈ってもらえますか」とそれが取り除かれるように祈ってもらった
ことがありました。

今思えば、多分その時自分の「器」は自分の考えや頑固さ、わがままなどで一杯になっており、
聖霊様が強くその状態を自覚させて下さっていたのかもしれません。
それが取り除かれなければ、聖霊様が自分の内側に入ってきて働けないような状態になって
いたのだと思います。

その前から悔い改めは何度か自覚して行ってきていましたが、この時は今も覚えているくらい
より強力に感じました。

私のそうした話を聞いて、クリスチャンの友人が語ってくれた体験では、
同じく彼女にも器のようなものがあって、洗礼を受けたその夜から、そこから水のような、
愛のようなもの(彼女はそう表現していました)が溢れ出て止まらなくなって、
次の日までずっと溢れっぱなしだった感じになったそうです。

神様と和解して、自分の罪の存在を認め、悔い改める時に心の解放と平安がやってきます。
罪が除かれ、代わりに聖霊様が働かれるようになります。
毎日生活していますので、悔い改めることが色々発生してきます。
これを放って溜めておくと、心の中に汚いものが一杯詰まって苦しくなり、取り除かなくては!
という気持ちになります。

罪を取り除いていただくため、人はイエス様のお名前で神様に赦していただくよう祈る必要があります。
汚いものがずっと内側にある状態に慣れてしまうと、心が憂鬱になり、不安になり、暗くなり、
やる気がなくなり、はたまた病気になり…etc となってしまいます。

明るく力強く毎日を過ごしていくためにも、日々罪を悔い改め、聖霊様の力を頂いて過ごすことが
クリスチャンのみならず、全ての人々にとって必要なのだと思います。