天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

放蕩息子の話し

新約聖書ルカによる福音書15章に「放蕩息子」のお話しがあります。

とても有名なお話しなので、クリスチャンじゃなくても知っているかもしれません。
何年もこのお話しを聞いていましたが、自分が放蕩息子であったこと、
今も放蕩息子(娘?)であることを自覚できたのはやっと最近のことでした。
数々の教会を放浪してきた私は、文字どおり放蕩息子以外の何者でもありませんね。(笑)

神様は私達の自由意志をとても尊重してくださっていると感じます。
人間自身の努力をしていく中で、ご自身が出過ぎない所で秘かに助けて下さいます。
これは自分の体験からそう感じるようになりました。
辛いとき、苦しいときなど、弱い自分はすぐ神様に叫び声を上げてしまいますが、
その声すらも静かに耳を傾けて下さり、私達が祈りのうちに乗り越えていく姿を、
じっと期待して待っていてくださるように思います。

子供の頃は放蕩息子の話しは「ろくでなしで、自分勝手で、遊び人」の人の話しだと
思っていました。しかしだんだんと、これって全部自分に当てはまるなあ
と思うようになりました。

このお話のポイントは、父親が神様で、放蕩息子(弟)が私達(人間=異邦人)で、
長男がイスラエルということです。

父親(神様)は弟(人間=異邦人)に自分の財産の半分すらも与えて下さり、
これで「おまえの好きにしなさい」、と仰って下さいました。
弟はその財産を持って自分の好きなことをしに行きます。
そして世の楽しみをあらん限りし尽して、豚の餌を食べたいと思うほどまで堕ちたとき、
はっと我に帰り「お父さんのもとに帰ろう」と思います。
息子が帰ってきたのを見て、父は責めるどころか、駆け寄ってきて抱きしめ、
最上の着物(義の衣)を着させ、指輪を手にはめさせ(契約の印)、
履物をはかせ(神様の道を歩けるように)、祝宴を開いてさえしてくれました。
兄(イスラエル)はこれを見て嫉妬して怒ります。

神様は私達が罪ある状態から立ち返り、いつでも祝福してくださろうと待っていて下さいます。
最大限、私達の自由な意志を尊重してくださっているので、私達は色んなことをしてよいのです。
でも自由に任されていることの中にも、神様の御心を悲しませることがあります。

この世のはかない楽しみや、自分勝手な状態から離れ、
神様からの祝福を受けることができるかどうかは、私達の意志に任されていると思います。
自分の罪のひどさよりも、私達が神様のもとに立ち返るかどうかを、
神様は見て下さっているのだと思います。

心が空しくなるのは、神様の御心を悲しませている時だと思います。
何のために生きているのか分からない、生きる意味が分からないと思うような時、
神様がいつも忍耐して招いてくださっているということを思い出して、立ち返っていきたいです。
自分が放蕩息子であったこと、今も放蕩息子になりやすいことを
忘れないようにしなければと思います。

このお話しはイスラエルと異邦人の関係から見れば、さらに深い読み取り方ができるかと
思いますが、私が理解したのは上に書いたようなことでした。