まったくの歴史嫌いだったのに、日本の歴史の中に聖書の神様の足跡があると分かってから、
どんどんそれを発見していくのが楽しくなってきました。
ここ最近、伊雑宮について興味をもって調べていたのですが、
皆さん聖徳太子ってどんな人かご存じでしたか?
私は聖徳太子のこと、はっきり言ってあまり興味なかったです。
歴史の教科書では「仏教の擁護者」また、十七条の憲法を作った聖人として名高い人ですよね。
実はこれは真っ赤な嘘で、むしろ神道の側を支持し、
十七条の憲法の文言も、後に仏教の僧侶によって、すり替えられていたそうです。
あざやかにその謎の回答が書かれていました。
今の時代、情報の力を借りて、ちょっと調べれば何でも分かってしまいますね。
時は物部一族と蘇我一族が相争っていた不穏な時代で、
蘇我氏が日本に仏教を導入しようと、躍起になっていました。
仏像や寺をどんどん破壊していきました。
偶像崇拝は神様が許しませんものね。
「守屋を討伐することが叶うなら、この枝に葉を生ぜしめたまえ」
と祈って、果たしてその通りになったと記録されています。
このことからも、聖徳太子は守屋を大切にしていたっぽいのです。
にっくき守屋のはずなのに?
四天王寺も今は「寺」ということになっているけど、実際鳥居があったりして、
昔は神社の体をなしていたそうです。
崇峻天皇を暗殺するなど、危険極まりない人物だったからです。
この横暴に推古天皇もたまりかねて、絶大な信頼を置いていた、
聖徳太子を摂政に立てて、実際の政務に当たらせたようです。
神道を支持していたことが伺えます。
聖徳太子はこちらの教えにこそ帰依していたのでは、と推理されています。
聖徳太子もその影響を受けていたはずです。
(通説では蘇我馬子との共著となっている。)
その時、「せっかくのこの書も、遠からず失われるおそれがあります」
何故なら、その前に著した「天皇記(すめらみことのふみ)」「国記(くにつふみ)」
という2つの書も、焼き討ちにあい失われてしまったからでした。
(国記はすんでの所で救出されたという話も)
彼自身身の危険をひしひしと感じていたのでしょう。
その後聖徳太子は急逝してしまいます。(A.D.622年)
太子の奥さんはその一日前に亡くなっています。
また彼の一族も25人、蘇我入鹿によって全て自害に追い込まれるという、
凄惨な結末を迎えたのでした。(A.D.643年)
こういうことも中学校の時とかに習いましたかね?!
私は最近まで全く知りませんでした。
(つづく)