天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

聖徳太子暗殺の解(1)

イメージ 1

まったくの歴史嫌いだったのに、日本の歴史の中に聖書の神様の足跡があると分かってから、

どんどんそれを発見していくのが楽しくなってきました。

ここ最近、伊雑宮について興味をもって調べていたのですが、

聖徳太子の影が伊雑宮にもちらついていることがわかりました。

皆さん聖徳太子ってどんな人かご存じでしたか?

私は聖徳太子のこと、はっきり言ってあまり興味なかったです。

歴史の教科書では「仏教の擁護者」また、十七条の憲法を作った聖人として名高い人ですよね。

実はこれは真っ赤な嘘で、むしろ神道の側を支持し、

十七条の憲法の文言も、後に仏教の僧侶によって、すり替えられていたそうです。

聖徳太子が馬小屋で生まれたとか、イエス・キリストっぽいのも何か妙ですよね。

保有政氏の「仏教の中のユダヤ文化」という本の中に、

あざやかにその謎の回答が書かれていました。

今の時代、情報の力を借りて、ちょっと調べれば何でも分かってしまいますね。

時は物部一族と蘇我一族が相争っていた不穏な時代で、

蘇我氏が日本に仏教を導入しようと、躍起になっていました。

対する物部氏は、神道の側の人で、旧約聖書ユダヤ人のごとく、

仏像や寺をどんどん破壊していきました。

偶像崇拝は神様が許しませんものね。

頭にきた蘇我氏は、その先頭に立っていた、物部守屋という人を殺してしまいます。

ここで歴史的には、聖徳太子蘇我氏が組んで、物部守屋を追い詰めたことになっています。

聖徳太子ゆかりの四天王寺で、聖徳太子は手に木の枝を持って、

「守屋を討伐することが叶うなら、この枝に葉を生ぜしめたまえ」

と祈って、果たしてその通りになったと記録されています。

ですが、その四天王寺には何故か物部守屋の祠がある。

このことからも、聖徳太子は守屋を大切にしていたっぽいのです。

にっくき守屋のはずなのに?

実は聖徳太子は仏教側の人というよりも、むしろ神道側の人だったようです。

四天王寺も今は「寺」ということになっているけど、実際鳥居があったりして、

昔は神社の体をなしていたそうです。

聖徳太子は当時の大権力者、蘇我馬子と距離を置きたがっていたようです。

何故なら蘇我馬子は、次期天皇となる皇子(穴穂部皇子)を殺したり、

崇峻天皇を暗殺するなど、危険極まりない人物だったからです。

この横暴に推古天皇もたまりかねて、絶大な信頼を置いていた、

聖徳太子を摂政に立てて、実際の政務に当たらせたようです。

推古天皇は「よく神祇(じんぎ)に従え」と、みことのりを出していたことからも、

神道を支持していたことが伺えます。

推古天皇聖徳太子はこの点で、考えが一致していたと考えるのが自然でしょう。

さらに言えば、この時代の神道は久保有政氏によると、「キリスト神道」とでも呼べるものであり、

聖徳太子はこちらの教えにこそ帰依していたのでは、と推理されています。

聖徳太子のブレーンである、秦河勝は原始キリスト教徒(景教)だったので、

聖徳太子もその影響を受けていたはずです。

また聖徳太子の息子も、秦河勝に教えてもらっていたそうです。

ところで聖徳太子は「先代旧事本紀」という書をA.D.620年に著しました。

(通説では蘇我馬子との共著となっている。)

その時、「せっかくのこの書も、遠からず失われるおそれがあります」

推古天皇に漏らしたそうです。(仏教の中のユダヤ文化 P162)

何故なら、その前に著した「天皇記(すめらみことのふみ)」「国記(くにつふみ)」

という2つの書も、焼き討ちにあい失われてしまったからでした。

(国記はすんでの所で救出されたという話も)

彼自身身の危険をひしひしと感じていたのでしょう。

その後聖徳太子は急逝してしまいます。(A.D.622年)

太子の奥さんはその一日前に亡くなっています。

また彼の一族も25人、蘇我入鹿によって全て自害に追い込まれるという、

凄惨な結末を迎えたのでした。(A.D.643年)

こういうことも中学校の時とかに習いましたかね?!

私は最近まで全く知りませんでした。

(つづく)