天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

イエズス会の内幕を暴露したアルベルト・リベラ(7)

ティム:「アルベルト、ミサというのは一体何なのです?」
リベラ:「ああ、それは美しい発明だったんだ。A.D.368年にローマの司教によって即席で考え出されたのだ。トレントの会議の期間、ミサを“説明する”ために新しい用語が生み出された。それが“全質変化※”だ。」
(※司祭はパンとワインを全能の神(イエス・キリストの現実の肉体と魂と血)へと変化させる力を持つということを意味する。)

ティム:「何てこった・・・それは全く冒涜的な考えだ・・・彼らはそれを受け入れたんですか?」
リベラ:「その通り!司祭は自分が天からキリストを引きずり降ろす力を持っていると言っている。ミサが行われるその都度十字架刑を繰り返すために。」
ティム:「それは狂っている!聖書は“人の子(キリスト)は、永遠に罪人のために一つの犠牲をささげた後、(天国で)神の右に座した。(ヘブライ人への手紙10章12節)”」
リベラ:「そういう訳で、その節はローマカトリックでは決して読まれないんだ!」

司祭達が嫌う別の節、“もし人が罪を犯すと、私達は父なる神に対する弁護人(イエス・キリスト、公正なお方)がいます。”。

弁護士と言えば、ローマカトリックの組織は追従者を、このように信じ込ませて騙してきた(それは純粋なバール崇拝なのだ)。

次の言葉は聖書では見られない。
ローマカトリックが何と言っているかというと・・・

「イエスは慈悲のない裁判官として天に上り、誰も自分の罪状について懇願することを許されない。それでマリアが同情と理解に満ちた悩める母として、彼の前に立っているのである。彼女の息子に、彼女に対して信仰深く祈り、彼女が共同の救い主であり共同の贖い主※であると信じる、これらローマカトリック信者に対する、赦しと憐れみを乞いながら。」
(※イエスが十字架に架けられている同じ時に、人類に対する痛みと苦しみによって、マリアも自分の血を流したと言っている。)

ティム:「それでマリアは彼らにとって煉獄へと行った後、天国への鍵となっている訳ですね。」
リベラ:「そうだ!彼らは自分達の魂を失うという恐れから、絶対マリアを放棄したりしない。そのシステムはイエスの貧しい地上の母を女神へと変えた。マリアは他の人間と同じ様に罪人であり(※1)、イエスだけが罪無しで産まれた(※2)のだ。」
(※1 義人はいない、誰もいない。ローマ人3章10節、何故なら全ての人は罪を犯しており、神の栄光を受けられなくなっている。ローマ人3章23節)
(※2 (イエスは)罪を犯されなかった、その口にも偽りが見いだされなかった。ペテロ第一2章22節)

リベラ:「私はマリアを心から愛していた・・・彼女のためなら殺人を犯しさえもしていただろう。私は彼女のために喜んで自分の人生を差し出していた・・・その時までは。私が聖書の中で見つけたあることが、私を根底から揺さぶる時までは。」

何故イエスは自分の母を“婦人よ”と呼んでいたのか?
ヨハネ2章4節 “婦人よ、あなたは私と何の関わりがあるのか?”
ヨハネ19章26節 “婦人よ。ご覧なさい。あなたの息子です。”それからイエスは彼の弟子に言った、“ご覧なさい、あなたの母親です。”

これらの2つの節は私をひどく当惑させた。私は眠ることができなかった。私はユダヤ人のラビに連絡をとって、この言い方が彼女に対する適切な呼びかけ方なのかを訊ねた。彼の答えは「ノ―!」だった。彼はそれは侮辱するものだとみなした。

サタンの宗教は“バール信仰”と呼ばれている。それはバビロニア時代に遡る。その時人々は天の女王を拝んでいた。神はそれを憎んだ!(聖書のエレミヤ書7章と44章を参照のこと。)それは何故イエスがマリアのことを“婦人”と呼んだのかという理由である。同様のシステム(今やローマカトリックの教義と呼ばれているが)が彼女を天の女王に仕立て上げているのだ。

ジェイムス:「アルベルト、無原罪の宿りというのは何なのでしょう?」
リベラ:「ローマカトリック信者は、マリアの母親が罪無しに彼女を孕んだと信じなくてはならないんだ。それゆえマリアは罪無しに産まれて来たと。このようにしてマリアを父なる神に等しい者に仕立て上げたのだ。そして彼女を神(息子イエス)の母親としたのだ。」
ジェイムス:「何ということだ、本当のクリスチャンは誰もそんなこと受け入れないな。」

ジェイムス:「そこら中のローマカトリック信者は俺達に彼らが生まれ変わって救われていると言っています・・・彼らは俺達と違う言い方で話しているのでしょうか?」

リベラ:「全くその通り。カトリック信者がバプテスマのために水をふり掛けられると、彼は自分が生まれ変わったと信じるのだ。たとえ赤ん坊であっても。ローマカトリックは、彼がマリアを拝み、彼らのシステムに忠実でいさえすれば、自分は救われると信じている。彼らはローマカトリックの組織以外には何の救いもないと教えられている!

ローマカトリックの信者が、自分はイエスを自分の主であり救い主として受け入れていると言う時、彼は私達が彼がそう考えていると思っていることを言っていないんだ。彼は蘇りのキリストが自分の心の中に住んでおられるということを言っていない。彼がイエスを受け入れていると言うのは、司祭がミサを唱えている際にホスチア(またはパン)を食べることを意味する。彼はイエスの本当の体と血を食べていると信じているのだ!」

ローマカトリック信者が悔い改めると言う時、それは何を意味しているのか?彼は本当に自分のために神に赦しを願い、本当に悲しみ、罪から離れるということを意味しているのだろうか?

全く違うのだ。ローマカトリック信者は贖罪することによって神に帳消しして頂かなければならないのだ。司祭は彼を赦すが、信者に自分の罪のために贖罪をさせるようにする。これは彼が50回マリアの祈り又は主の祈りを唱えることを意味する。またはキャンドルに火を灯し、聖人達やマリアに捧げることを意味する。さらに膝を擦って教会の周りを回ることを意味するのだ。司祭が命じることは何でもだ。

ローマカトリックの信者が私達に自分が悔い改めていると言うのは、そういうことなんだ。

ジェイムス:「それではもしカトリック信者が本当に救われるとしたら、彼はどうにもローマカトリックのシステムではやっていけないということですよね?」
リベラ:「その通り!彼はそこから出なければならない※!彼がもし主イエスに従うとすれば、そのシステムを自分の心から追い出し、彼に自分の人生を差し出すだろう!そのシステムは死と恐怖しかもたらさないのだ!」
(※ 第二コリント6章14-18節、7章1節)

(つづく)