(建勲神社 その2)
今日は教会の礼拝を休んで自主活動の日にしました。
こんな礼拝に苦痛を感じながら出席して、果たして行く意味があるのだろうか?
またもや最近感じ出してきて、頭を冷やしたかったからです。
自分は礼拝のことを自由に捉えるタイプなので、腐れた心で毎週礼拝に出席するよりも、
むしろひと月に一度新鮮な心で神の言葉を聞いた方がよい、と考えます。
ていうか神様を信じる人にとっては毎日が礼拝だろう。
先週はペンテコステ週間だったようですが、先生はお説教の中で、
「聖霊が天から下って、一斉に異言で語り始めたような出来事は、その時に特有のものであって、
現在そういう現象を求めるのは適切な態度でない。」
と仰っていました。
確かに一時的な陶酔感に浸るだけ浸って、その後の堅実な成長は起こらずじまいみたいな、
そんなのは偽のリバイバルなのかもしれません。
ですが、先生が聖霊の話をすればするほど、しら~っとした空気が漂うのを感じました。
先生はもっともなことを語られているのですけど。
私の前にいた長老夫妻は居眠りしていました。
この教会は自分達の狭い知識の中に神様を押し込めて、人間の力でやろうとしている、
そんな印象を強く持ちます。
なぜそうなってしまうのでしょうか?
結局神様に激しく頼らなくても、済んでしまう条件を既に持ってしまっているからかもしれません。
激しく謙遜にならなくても、激しく助け合わなくても、激しく祈らなくても。
と、荒野で一人佇み考えるのでした。