イエス様みたいな人に会ったことがあります。
2年前の春の集会の時の話しです。
柔和で包容力があって、「あっ、この人仏様みたい!」
(笑)と思った人は今までに何人もいましたが、
イエス様みたいだと思った人はその人が初めてでした。
イエス様がどういうお方か良く知りもしないのに(笑)、何故かそう感じました。
会って言葉を交わしたのはほんの二言三言だけだったにもかかわらず、
その人の印象は深く心に沁み入りました。
その人というのは70歳以上にもなる宣教師のPさんのお兄さん(Rさん)でした。
その人を際立たせているものは明らかに「謙遜さ」だったと思います。
初対面では、まずその人がどんな人か、お互い様子を伺うのが普通の人の反応だと思いますが、
Rさんは初めから人を伺うような壁を感じさせませんでした。
ちょうど自分の前で腰をかがめて接してくれているという感覚を受けました。
自分よりも低くなってくれている、その態度に深い感銘をおぼえました。
残念ながら、今まで私の周りの教えてくれる立場の人には、このRさんのような
低さを感じたことはほとんどありませんでした。
質問しても「君に教えてあげよう」的な接し方で、まるで頭を押さえ付けられる
ような感じを受けることの方が多かったです。
(私が特にそう感じやすかったのかもしれませんが)
世の基準では、みんな自分を高くしようという方向で動いているように感じます。
みんな他人を出し抜こう、自分をいかに良く見せようかと必死です。
話しでも行動でも、我先にと自分を表現するのに躍起になっているようです。
自分もかつてそうでしたし、今でも自分をよく見せようとする
力が内側で働いているのを感じます。
人の前で尊ばれるものは神の前で忌み嫌われるとありますが、
人の心の向かう方向もまさしくこのようなものであると思います。
自分を賞賛する方向は神様に嫌われるのです。
Rさんに接して、自分を誰よりも低くするということが実を結んでいる
人だとはっきりと分かりました。
雄弁に語るでもなく、大胆に振る舞うでもなく、
特別目立つ姿形でもないのに、その人の存在そのものがそう語っていました。
このような心のあり方は、神様に賞賛されるものではないでしょうか。
イエス様が2000年前に地上に降りて来られ、人の子となって下さったのも、
私達人間に仕えて下さるためだったことを思い出します。
そして最後の晩さんの時には、弟子の足を洗うことさえして下さいました。
(足を洗うことについては、また別のときに書こうと思います。)
ちょっと想像できませんが、神様の子が汚れたこの世に降りて来てくださって、
人間と同じように生活し、最後には罪に定められるというものすごい落差を、
イエス様はご自分を空しくするということで乗り越えてくださったのではないでしょうか。
自分を人間の下に置いて、仕える者となってくださったイエス様の姿を、
Rさんの中に垣間見たのでした。