天国への一歩

神・霊・魂、霊の見分けの話題。キリスト教信仰が出発点です。

「教会」から離れる時 2

今までたくさんの教会と呼ばれる集まりに出てみて、他に職を持たない専門職(?)の
聖職者と接してみてよく思うのが、世俗で生きる人の立場に立って物を見てくれる人、
共感できる人がとても少ないということです。
 
「世俗と分離する」という教えが聖書に書いてありますが、
この教えから、世俗的なことは悪いことばかり、自分達だけがいつも正しい
というような雰囲気が生まれてしまうような気がします。
 
教会の中では、批判的な態度で物を見たり、改善すべき点があれば指摘したり、
それら意見を一旦受け止めて、広い心で皆で話し合うということが
できなくなってしまうのでしょうか。
そういうことを牧者は自ら指導できないのでしょうか。
 
「裁いてはならない」という教えが聖書にあります。
エス様はこの言葉をどういう気持ちで言われたのでしょう。
 
聖職者は批判されてならないものなのでしょうか。
教職者、弁護士、医者など社会のトップに立つ人達は誰からも
叩かれないことが多いように思います。
反対に、底辺にいる人達は上からも同僚からも叩かれまくります。
 
でもそうして叩かれているうちに、他人の気持ちがもっとよく分かったり、
痛みに耐えていく中で、どんどんと磨かれてくるものがあるのを見てきました。
叩かれることが少なかった人は、長い年月が経った時光り方が少ない
ように見えます。
 
だから、教会も一個の人間として考えると、もっと批判されてよいと
思います。神様も愛する者を叱ったり、懲らしめたりすると仰って
います。
 
でも耳に痛いことを、自分達に都合の悪いことを、まるでいまいましい
ことのように顔をそむけ、聞かないようにしてしまうのは何故でしょう。
ほんのちょっとした意見を私が言った時など、そういう態度を牧者に
多く見てきました。
 
「議論するな」とも聖書にあります。
この言葉をいかなる場合でも、そのまま適用してしまって良いのでしょうか。
これを振りかざそうと思えば、いつでも聖職者は誰からも批判されない不可侵の
万能者のようになってしまい、大変危険です。
 
会社で働いていると、毎日が改善の連続です。
そうしてちょっとづつ良くなっていきます。
教会もそのようであってしかるべきと思います。
改善をこばむ教会はいつか腐れていってしまうと思います。
 
「ラビ」になる候補者は世俗の中で働いていて、経験を積んだ歳の取った
人がなると聞いたことがあります。世俗の人と同じか、またはそれ以上に
苦しみ悩み、地獄を見てきた人が指導的な立場についてほしいと思うのは、
私の勝手な願いでしょうか。