黙示録は、しばしばイスラエルの過去の出来事や象徴を引用して、神が伝えようとしている真理を説明するために用いられています。エリヤのカルメル山での戦いは、まさに黙示録16章で言及されている地域で行われたので、この出来事も似たようなものであることが強く示唆されます。
聖書には、日常生活の中のありふれた出来事を通して、サタンが神と戦っている状況が描かれています。そのような対立は、この地上に生命が誕生する以前から、善と悪の間で起こっていたことを物語っています。ヨブ記1-2章はその良い例です。多くの場合、戦いの多くは人間の目には見えないが、それは非常に現実的なものであるということです。それは、人間の心や、天そのもの、そしてそれが象徴するものをめぐる戦いに関わるものです。
黙示録16章には、世界の国々がハルマゲドンの主役であるとは書かれていません。龍(支配する君主、権威)、獣(支配する権力)、偽預言者(神に関する誤った教義)が、世界の国々(共通の信仰を持つ預言者のグループ)を、戦争(紛争)のために集めることを指揮していることが示されています。これは「国と国との対決」ではなく、「霊的な力と霊的な力との対決」です。14節では、神の大いなる日に対する戦いとして語られており、これは神ご自身と、神が象徴するものに対する戦いであるということです。また、神と戦う者に打ち勝つとも書かれています(啓示17:14)。
エリヤがカルメル山で挑んだ偽りの神が、異教徒の神バアルであったことは重要です。紀元5世紀から6世紀にかけて、ローマ・カトリック教会にバアル崇拝のさまざまな側面が導入され、教会の教義が堕落し、黙示録の獣と化したのでした。
つまり、一方は神、他方は教会内で誤った教義を教える竜、獣、偽預言者に擬人化されるサタン(偽預言者)であるということが特定されます。神の民は、誰に仕えるかを問われることになるのです。神の側につくと決めた人には、永遠のいのちがあります。獣に味方した人には、獣と一緒に裁きと破壊がもたらされます。この出来事は、バアルの祭司を殺したことに相当するものです。
エリヤとバアルの預言者・祭司との戦いの原作では、いくつかのことが明らかにされています。カルメル山で、神は預言者エリヤを通して人々を呼び集め、その日の出来事をもたらしました。その出来事において、神は人々が神に仕えることを選択するように仕向けることができたのです。ハルマゲドンでは、カルメル山の出来事の鏡うつしの出来事として、逆に獣が人々を集めました。創世記では、カエルはエジプトを苦しめるために神によって送られましたが、ここではカエルは奇跡を起こすため、獣によって送られます。つまり、カエルはカエル(災い)であるが、獣の災いは奇跡を装ってやってくるということです。
ハルマゲドンについては、人々は戦争のために集められましたが、神が戦争を期待したり、準備したりした形跡はありません。また、実際に戦争が起こったという記録もありません。獣、つまり神の民を支配する人間の権力者たちが、戦いの時であると心に思ったのです。彼らは神の民に対して戦争を仕掛けるために集まったつもりでしたが、神は彼らを逆上させました。校庭のいじめっ子たちは、自分たちが弱い者たちを追いかけてきて、喧嘩を売っているのだと思っていました。野獣は神の民との戦いを期待しましたが、彼が得たのはビッグブラザー、つまりイエスとの出会いでした。
なぜそれがわかるのでしょうか?この話のちょうど真ん中、15節に、神の民に対して、彼は盗人としてやってくるので、準備と警戒をするようにという警告があります。これは、第二ペテロ3:10、マタイ24:42、マタイ25:13、第一テサロニケ5:2に酷似しています。5:2はイエスの再臨に言及しています。「そのとき、天は大いなる音を立てて過ぎ去り、元素は激しく燃えて溶け、地も、そこにある業も、焼き尽くされる。(ペテロの手紙2 3:10)とあります。全能の神の大いなる日と呼ばれるのも当然です。
(つづく)